とあるバハイ教徒の日記:第二支部

神の存在証明と地球温暖化防止

僕達は皆、妄想の世界に生きている(1)

昨日の日記 http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-63.html にはトランプ大統領が主観と偏見の強い人である、と書いた。

しかし、これはトランプ大統領だけでななく、我々皆に当てはまることなのである。

つまり、我々は皆、主観の世界に生きており、偏見を持っているのである。極端な表現で言うと、「我々は皆、妄想の世界に生きている」と言う事が出来る。

そして、インターネットはその「妄想の世界」を拡張していると僕は思う。

例えば、「インターネットビジネスで誰でも月収**万円が得られる」といった情報がウェブ上には満ち溢れており、それらの殆どは結局、詐欺的な情報なのであるが、我々はついついそういった情報を信じてしまう。

そういう情報を流すプロの人達は、とにかく我々が信じてしまいやすいようにあの手この手を使っており、我々は妄想を抱いてそうした詐欺情報に嵌ってしまうのである。

こうした情報は株式投資、FX、不動産投資、物販、アフィリエイト、引き寄せの法則、等々様々なジャンルにおいて存在している。

ネットビジネスにおいて、文章を読んで貰って稼ぐよりも「ネットビジネスで稼ぐ方法」を提供して稼ぐ方が稼ぎやすいのも、我々が「ネットで稼げる」という妄想に陥りやすいことに起因する(実際には、ネットで稼げているのは少数)。

このように「我々は妄想に陥りやすい」と書いている僕自身も、やはり妄想に陥りやすいのである。

例えば、僕はこれまで「引き寄せの法則」を肯定的に書いて来たが、もしかすると引き寄せの法則なんて無いのかも知れない。

しかし、何か「願望は実現する」という引き寄せの法則は魅力的で、それを信じてしまいたくなる。

問題は、もし「我々は妄想に陥りやすい」のが社会的に無害ならばさほど問題はないのであるが、これが大きな害のある事である。

最大の害を挙げると、核兵器の問題がある。

これは「敵が核兵器を使って攻撃してくる」という妄想に陥るから「相互確証破壊」という戦略が生まれ、地球を数十回も破壊出来る核兵器を所有するという狂気でしかない状態が、「合理的」であると理由により生じた。

このように、人間の理性はどこかに問題がある。

コンピューター技術の驚くべき進歩と、全然進歩しない人間の理性、これは将来、地球を破滅に導くことになりはしないか?

かつてはインターネットによるネットワークの台頭により高次の意識が生じ、自己中心的な物欲が捨てられ、ガイア意識が生じるという「グローバルブレイン(ピーター・ラッセル著、1985年)」という仮説があったのだが、その仮説は当たらず、現在インターネット上ではナショナリズムが高揚し、詐欺的な情報が蔓延り、人々はそれに乗せられて妄想に嵌り続けている。

いいかげん、このような世界はどうにかならないものだろうか?

そのためには、我々が妄想の世界に生きるのを止め、客観的にものごとを判断出来るようにする必要がある。

それには皆が悟ることが必要であると僕は考えているのが、どうだろうか(この結論は、エックハルト・トールと似ている)。

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地球温暖化防止には、引き寄せの法則を使えば良いのでは?

http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-28.html において僕は、引き寄せの法則と地球温暖化防止について考察し、「人類全員が引き寄せにより豊かな生活を送るようになったとしたら、二酸化炭素がどんどん排出されて地球環境が壊滅的なダメージを受けてしまうのではないだろうか?」という問題提起をした。

しかし、僕は上記の日記の中で重要な点を思いつかないでいた。

それは、「地球温暖化が解決された世界を引き寄せれば良いのではないか?」というものである。

世の中には凄い引き寄せのプロが居て、何でも自分の願望通りに引き寄せてしまう事例を知っている。

そういう人に「地球温暖化が解決された世界を引き寄せて下さい」と頼み込めば良いのではないだろうか。

あるいは、地球温暖化防止そのものではなくても、「地球温暖化を解決する新エネルギーを引き寄せて下さい」と頼めば良い。

ここでひとつ問題になるのが、引き寄せの法則とは現時点で存在するものを引き寄せるのか、あるいは新しいアイディアや発明も引き寄せられるか、という点である。

そこで、引き寄せの法則を実践した偉人の言葉をまとめた https://matome.naver.jp/odai/2136006954556471801 を見ると、発明王・エジソンの言葉が載っていた。

(以下、引用 https://matome.naver.jp/odai/2136006954556471801

『私は何も発明していない。私の夢が発明したのだ。』トーマス・エジソン

(引用終わり)

これを読む限り、「地球温暖化を解決する新エネルギーを絶対に発見する」という夢を持つ技術者(かつ引き寄せの法則の実践者)が新エネルギーの開発に取り組めば、そのような新エネルギー技術が開発される、ということになるのではないだろうか?

例えば、世界最高の起業家とされるイーロン・マスクは以下の2つの野望を持っているという。

1. 地球環境を守るための持続可能な新エネルギーを実現
2. 人類の新しい環境となる宇宙(火星)への移住

このイーロン・マスクはこの世を仮想現実と考えていることで有名で、これまでにオンライン決裁システムのPayPal(ペイパル)、電気自動車事業のテスラ・モーターズ、宇宙事業のスペースX、太陽光エネルギー事業のソーラーシティなど、世界的な企業を立て続けに創設している。

イーロン・マスクのような人なら、「地球温暖化を解決する新エネルギーを引き寄せる」ことが可能かも知れないと考えられる。

問題は、イーロン・マスクが引き寄せの法則の実践者なのか、それとも過去の成功は全て彼自身の努力でありスピリチュアルな要素はひとつもないのか、という事である。

これについては、色々と検索してみたのだが、解答は見つからなかった。ただ、イーロン・マスクの「この世を仮想現実とする」仮説が、デカルトや僕のように神が仮想現実を作り出しているという仮説ではなく、「我々はコンピューター・シミュレーションの中で生きている」という仮説であることは分かった。

では仮に、我々がコンピューター・シミュレーションの中で生きていると仮定すれば、引き寄せの法則はどうなるのだろうか?

引き寄せの法則は「その人の波動が宇宙の波動と合致する時に起こる」とされているので、イーロン・マスクの「我々はコンピューター・シミュレーションの中で生きている」という仮説とは辻褄が合わないように思う。

ということで、世界最高の起業家イーロン・マスク氏が地球温暖化を解決する新エネルギーを引き寄せてくれる、ということにはあまり期待出来なさそうだ(引き寄せの法則ではなく、彼自身の努力で新エネルギーを開発する可能性はあるが)。

よって、我々の望みは誰か別の人物(新エネルギー開発の技術者かつ引き寄せの法則の実践者)に期待するしかない、ということになる(もちろん、これは引き寄せの法則で温暖化防止をする事に限ったケースであり、別の方法で地球温暖化を防ぐ場合は事態が異なる)。

日を改めて書くが、トリウム溶融塩原子炉の実現は早くて2030年であり、それ以前のCO2削減も決定的に重要なのであるが、それに用いる新エネルギー技術が無いのである(既存の原子力を除いて)。

このためには科学技術とスピリチュアリズムの力を総動員する必要があるのだが、スピリチュアリズム界ではどうも地球温暖化問題に対する危機意識が低いようである。

残された手段が「環境ファシズム」しかない(あるいは、地球が壊滅的な打撃を受けるしかない)、などということにならないよう、祈るところである。

追記
なお、以上の議論は「引き寄せの法則」が本当に存在することを前提としている。もし引き寄せの法則がニセ理論という事であれば話は全く異なってくる。

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この世が仮想現実であれば、地球温暖化は何なのか?(2)

http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-56.html において、この世が仮想現実であれば、地球温暖化は何なのかというテーマで僕は日記を書いた。

そして、この世が仮想現実であっても我々にとって地球温暖化問題は深刻な問題であると結論した。

また、仮想現実を作り出しているのは神であると考えられることから、その神は解決不可能な問題は与えないと結論した。むしろ、地球環境問題を解決することにより素晴らしい未来が人類にもたらされるとポジティブに捉えることも可能であると書いた。

さらに、デカルトが既にこの世界は仮想現実であるという仮説を論じていることを紹介した。

しかし、ここで幾つか疑問が生じる。

まず、この世が仮想現実とした場合、その仮想現実の行く付く未来の世界はひとつなのか、また複数の未来世界が考えられるのか、という問いを立てることが出来る。

これはいわゆる「パラレルワールド」のような世界観であり、地球温暖化問題が解決された未来の世界と、地球温暖化により地球が壊滅的な打撃を受けた未来の世界が共に存在するかも知れない、とする世界観である。

さらに、地球温暖化をどのように解決するかの方法についても、ロッキード社かどこかが2020年代に核融合発電を実現させて地球温暖化を速やかに解決するか、それとも安全性に不安のある原子力発電で辛うじて地球温暖化を解決するか(この場合、福島原発事故のような事故が世界のどこかで起こることも想定される)、さらには他の方法で地球温暖化を解決するかについても未来の世界は複数が存在すると考えることが出来る。

このような世界観は非科学的な世界観で僕の妄想に過ぎないのだろうか?

wikipedia記事 https://ja.wikipedia.org/wiki/パラレルワールド には実際に物理学の世界でもパラレルワールドの理論的な可能性が語られている。という事は、地球温暖化により壊滅的な打撃を受ける未来の世界も想定することが理論的な可能性として考えられるのである(あくまで可能性だが)。

この、「仮想現実の行く付く未来の世界がひとつなのか、また複数の未来世界が考えられるのか」、という問いについては、「複数の未来世界がある可能性は理論的には考えられるが、まだ分からない」というのが暫定的な結論になるようだ。

次に僕が立てる問いは、「地球が壊滅的な打撃を受ける未来世界」について神がどう考えているか、ということである。

僕がこれまで経験した限りでは、「神は人間に対していじわるな事はしない」という真理があると考えている(この詳細については、また後日書く予定である)。

つまり、「地球が壊滅的な打撃を受ける」という事は「神は人間に対していじわるな事はしない」という真理に反すると僕は考えるわけである。

もし、「神は人間に対していじわるな事はしない」のが真理であれば、地球温暖化問題は解決されることになり、「地球が壊滅的な打撃を受ける」という事は起こりえないことになる。

地球が壊滅的な打撃を受けて人間が相当数死滅するということは、我々が魂を磨く勉強の場(この地球における人間個人の経験の場)が激減してしまうことを意味し、そのような事にならないように神は手助けしてくれるのではないか、と僕は考えているのであるが、どうだろうか?

僕は神を実感する経験をしており、また、人生が魂を磨く勉強の場であることについても実感として分かっているつもりである。だから、神は地球が壊滅的な打撃を受けるような事は防いでくれると直感しているのだが、これに絶対的な確信を持っているわけではない。

あるいは、この世は仮想現実だから、地球環境のマネジメントに失敗しても、ゲームのようにやり直すことが出来るのだろうか?しかし、これも考えにくい世界観である(もしそうであれば、世界大戦などの歴史もやり直して戦死者を減らせるはずである)。

本日は以上2つの論点(「世界が仮想現実とした場合、行き付く未来の世界は複数あるのか」という論点と、「地球が壊滅的な打撃を受ける未来世界について神がどう考えているか」という論点)について論じてみた。

僕なりの結論としては、「複数の未来世界の可能性は理論的には考えられるが、まだ分からない」「神は地球が壊滅的な打撃を受けるような事は防いでくれる」ということになったのだが、これらの結論は説得力があるだろうか?

僕の考えるに、まずは「客観的な神の存在証明」があるか、主観的に神を信じているかどちらかでなければ、これらの結論は説得力を持って受け入れられないだろうと考える。

だから、「客観的な神の存在証明(デカルト等がチャレンジした)」が必要だと僕は考えているのであるが、いかがだろうか?

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バハイ教徒の僕がなぜスピリチュアリズムの世界に足を踏み入れるのか?

宗教の信徒は通常、その人が所属する宗教・宗派の経典のみを頼りに自らの世界観を築くものである。

その考えを僕にあてはめると、僕はバハイ教徒であるから、バハイ教の経典のみから自らの世界観を築くべしということになる。

しかし、僕はエックハルト・トールを中心としたスピリチュアリズムからも自らの世界観を築こうとしている。

この僕の行為はバハイ教に背くものかというと、僕はそうは考えていない。その根拠は、バハイ教の教義には「真理を自分の力で探すこと」という教義が含まれているためである。

日本バハイ共同体のホームページには、具体的に以下のように書かれている。

(以下引用、http://www.bahaijp.org/bahai-towa/バハオラの教え

2.真理を自分の力で探すこと

人は自分の力で真理を探究しなければならない。古い習慣や伝統を盲目的に守るだけでは、いつまでたっても社会に進歩をもたらすことはできな い。真理を探究するときには、先入観を完全に捨てることが必要である。 自分の考えや信念と矛盾するからといった、すぐに拒絶せず、公平な判断力と知力を駆使して真偽をたしかめるべきである。

「その(正義)の助けにより、他人の眼でなく自分の眼で見、隣人の理解力でなく、自分の理解力で知りなさい……」(かくされたる言葉、 p.4)

(引用終わり)

僕はエックハルト・トールの思想に共鳴する部分があったので、彼の著書をバハイ教の教義と同様に重視しているのであるが、一方でエックハルト・トールの思想が絶対的であるとは考えていない。

人間の認識力には限界があり、エックハルト・トールが完全な真理を語っていると見なすのは無理であると僕は考えている。

例えば、エックハルト・トールは、宗教的戒律は不要であると書いているが、僕は人間の判断力は不完全であるから、判断力を矯正する手段としての戒律は有効であると考えている(例えば、嘘と陰口を言ってはいけない、等)。

だから、エックハルト・トールの著作を読むにあたっても、常に批判力を持って読まなければならない。エックハルト・トール自身、自分を教祖と捉えられたくないと考えているだろう。

では、バハイ教の経典については、どう考えれば良いのだろうか?これも批判力を持って読むべきなのか?

これは非常に難しい問題である。なぜなら、バハイ教徒は創始者であるバハオラを「神の顕示者」と認めることが前提だからである。

僕は基本的にバハオラを神の顕示者であると考えている。その根拠は、政治的に遅れた地域にあるイラン(ペルシャ)において、1860年代に「世界は1つの国家である」「全国家が軍事力を放棄すべき」「男女の平等」「極端な貧富の差の排除」「全ての人に義務教育を与えること」という超近代的な世界像を示したからである(なお、バハオラは正式な教育を受けておらず、全ては彼自身のインスピレーションから出たものである)。

しかし、僕はバハオラの書いたものが一字一句真理だとは考えていない。バハオラも人間である以上、神の心を完璧に文章にすることは無理であると僕は考えている。

そういう事でバハイ教の教義が言う通り「真理を自分の力で探すこと」が重要になってくると僕は考えるのである。これは容易いことではない。デカルトやカントが自らの脳の力を全力で振り絞って考えたような思考が必要になるのである。

では果たして、僕の脳でどこまで真理の探究が出来るのだろうか?それを考えると、僕は自分の人生に絶望してしまうのである(結局、僕はこれまで他の人が出してきたアイディアに何も付け加えるものなしに自分の人生を終えてしまうのではないか、と絶望してしまうのである)。

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デカルトはこの世を仮想現実と考えていた?

「我思う、ゆえに我あり」という命題で有名なデカルトであるが、この命題は「方法的懐疑」という思考から導き出されたものである。

この「我思う、ゆえに我あり」から神の存在証明に辿りつく論考は「神の存在、及び人間の霊魂と肉体との区別を論証する、第一哲学についての省察」という書名の本として青空文庫 http://www.aozora.gr.jp/cards/001029/files/43291_21543.html で読むことが出来る。

僕もこの論考を少し読んでみたのだが、かなり複雑な論考がなされており、本日のブログだけでその概要をまとめることは僕の能力を超えている。

ただ、神への信仰が揺らぎつつあったデカルトの時代に、彼が客観的な神の存在証明をしようと努力している心情は痛いほど分かる。このデカルトの論考の問題意識は、現在でも引き継ぐべきであると僕は感じた。

そこで、デカルト「省察」を分かりやすく解説したウェブ情報を探したのだが、平原卓氏のウェブサイトに興味深い説明があったので紹介させて頂く。

(以下、引用 https://www.philosophyguides.org/decoding/decoding-of-descartes-meditationes/

夢と現実は区別できない?

デカルトは次のように続ける。

(原文の平原氏による解読)
感覚は私を誤らせることがある。しかしそうでない場合もある。いま私がここにいることをどうして否定できるだろうか。そうしようとするのは狂人くらいだ。しかし私は、眠りに入ると、そこでもまた自分はいまここにいると考えることだろう。

確かに、いま私は目覚めている。この手を意識して伸ばし、かつ伸ばしていることを感覚する。しかし私は、夢のなかで同じような考えにだまされたことを思い出さずにはいられない。

以上のことをより注意深く考えてみると、夢と現実を区別する確実な根拠をどこにも見いだすことができないことに気づかされる。
(解読終わり)

ここでデカルトは、私たちが見ているのは現実ではなく夢だとあえて想定して、以下のように言う。

(原文の平原氏による解読)
手についてのイメージをもつためには、その元となる手がなければならない。また、空想上のキャラクターを描くためには、たとえそのキャラクターが空想であっても、色それ自体は真のものでなければならない。これと同様のことが事物の性質一般についても言える。形や量、場所、時間など。

しかし私は次のような説があることを知っている。全能の神が存在し、この神によって私はいまあるものとして造られたのだ、と。そうすると、私は神によって、形や量、場所などがあると思うように(実際はそんなものはないにもかかわらず)造られた、と考えることもできる。

こう考えると私は次のように言わざるをえない。かつて私が真とみなしたもののうちで、一切の疑いを容れないようなものは何一つ存在しない、と。
(解読終わり)

(引用終わり)

このデカルトの発想(この世は神が作り出した仮想現実である)は、http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-56.html で僕が書いたことと同じ発想なのである。

これは単純な理由で、全てを疑う方法論を採用すると、自分の見ている世界も夢のようなものかも知れないと考えられるからである。そして、その「夢」を造っているのは神であるとするのが最も合理的な発想なのである(物理的な力が夢の原因であると考えるのは少し無理がある)。

デカルトはさらに、この世が神の造った夢のようなものだという仮説に付け加え、さらに一切は悪い霊が作り出した幻かも知れないという仮説にまで踏み込むのである。

(以下引用、デカルト「第一哲学についての省察」より)

ここで、意志をまったく反対の方向に曲げて、私自身を欺き、それらの意見をしばらくの間まったく偽りで幻のものと仮想してみよう。

真理の源泉である最善の神がではなく、ある悪い霊が、しかも、このうえなく有能で狡猾な霊が、あらゆる策をこらして、私を誤らせようとしているのだ、と想定してみよう。

(引用終わり)

ここまで来ると、方法論的懐疑も行き過ぎなような気がするのだが、デカルトはこの「一切は悪い霊が作り出した幻」という仮説は確実な根拠をもたない「こじつけ」であると否定するのである。

そして、デカルトは次のような考えに辿りつくのである。

(以下、引用 https://www.philosophyguides.org/decoding/decoding-of-descartes-meditationes/

(原文の平原氏による解読)
私のうちにある観念の原因を私自身のうちに見出すことができず、自分がその原因でないことを確信するならば、ここから必然的に、世界にただ私だけが存在しているのではなく、その原因もまた存在するのでなければならないことが導かれる。

ここで、神の観念について考えてみたい。ここでいう神とは、完全で無限、全能であり私を、そして他のものがあるとすれば、それらを創造した実体のことだ。

(以下引用、デカルト「第一哲学についての省察」より)
右に述べられたところからして、神は必然的に存在する、と結論しなくてはならないのである。

なぜなら、私は実体である、というそのことから、確かに実体の観念が私のうちにあるにしても、だからといってその実体の観念は、—私が有限なものであるゆえ—真実に無限であるところの、ある実体からでてきたのでないかぎり、無限な実体の観念ではありえないはずであるから。

(引用終わり)

これがデカルトによる神の存在証明の第一段階である。これは現代人には詭弁としか思えないが、それでも現代スピリチュアリズムより重厚な響きのする言葉である。

なお、デカルトによる神の存在証明はカントによって否定されてしまうのだが、それでも近代哲学がここ(方法的懐疑)から始まったことは否定のしようがない事実なのである。

以上を考えると、スピリチュアリズムは近代哲学の議論で補強する必要があるのではないか、感じたところである。

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