とあるバハイ教徒の日記

神の存在証明と地球温暖化防止

「我思う」を巡るデカルト vs エックハルト・トールの議論は決着していない

ここ一週間ほど、ブログの更新が滞っていた。

その理由は色々あるが(単に忙しかった等も含め)、大きな理由はブログの更新を日課にすると、内容が薄まったり、ついつい安易な結論に陥ることだ(例えば、引き寄せの法則を量子力学で説明するなど)。

これは僕の本意ではない。僕はバハイ教徒である(ついうっかり、それを忘れてしまう事がある)。

僕は真理を探求したいのだ。

ただ記事を量産するばかりでは真理の探求からどんどん離れて行ってしまう。これでは、このブログの存在価値がなくなってしまう。

以上を教訓として、僕はブログの更新頻度を落としつつ、一歩一歩、牛歩のごとく真理の探究をして行きたいと考えている。

さて、今回僕が問題にしたい真理の探求は、「我思う、ゆえに我あり」を巡るデカルトとエックハルトトールの主張のどちらが正しいか、というテーマである。

僕は過去の日記で単純に時代の新しいエックハルト・トールの主張を正しいと書いて来た。

しかし、時代が後の者の言うことは常に正しいのだろうか?

デカルトは慣性の法則や運動量保存則などの物理学、さらに数学でも近代学問の基礎を築いた、歴史上の大人物である。それに比べ、エックハルト・トールは歴史に残る可能性の少ない一介のスピリチュアリストに過ぎない。

デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という命題は、欠陥はあるものの、「我思う」を哲学の出発点とした点は、哲学史上における大業績であり、易々と崩せるものではない。

これに対し、エックハルト・トールは「自分が考えていることに気づいたとき、気づいている意識はその思考の一部ではなく、別の次元の意識だ」と主張する。

両者の違いはどこにあるのだろうか?

まず、「思う(考えている)」ことについては、デカルトもエックハルト・トールも違いはない。

問題は、「思う」意識にある。

「思う」意識について、デカルトは単純に「我」という意識が思うのだと考える。

それに対し、エックハルト・トールは「思う(思考する)」意識とは別に、その「思考」に気づく意識が存在すると主張する(サルトルもそう主張する)。

その根拠は、エックハルト・トールによれば、以下のような内容である。

(以下、引用 エックハルト・トール「ニュー・アース」p.64 )
あなたのなかに思考しかなければ、思考しているなんてことはわからないだろう。

自分が夢を見ているのに気づかない夢中歩行者のようなものだ。

夢を見ている人が夢のなかのすべてのイメージに自分を同一化するように、すべての思考に自分を同一化する。

多くの人々はいまもそんな夢中歩行者のように生き、古い機能不全の心の癖に囚われ、同じ悪夢のような現実をいつまでも再創造し続けている。

しかし自分が夢を見ていると気づけば、夢のなかで目覚める。

別の次元の意識が入り込む。
(引用終了)

エックハルト・トールは上記引用文の「夢を見ている」と気づく場合(明晰夢と呼ばれる)を我々の普段の思考に当てはめて、「思考している」と自分が気付く時は、その思考とは別の次元の意識が「我あり」と言うと主張する。

このように「我あり」と言う意識は考えている意識そのものか(デカルトの主張)、「我あり」と言う意識は考えている意識とは別の次元の意識なのか(エックハルト・トールの主張)、という点が、デカルトとエックハルト・トールの主張に違いになる。

この「我あり」という意識を巡ってはデカルトとエックハルト・トールの主張のどちらが正しいか、学問的にはまだ決着が付いてないようだ。

ウェブ上の情報を調べた限りでは、専門家は誰もこの問題に言及していないし、この問題を取り上げたアマチュアのブログ等でもこの問題を深く掘り下げた記事は見つからなかった。

僕も自分なりに考えてみたのだが、デカルトとエックハルト・トールのどちらが正しいか、分からないままである(「我思う、ゆえに我あり」という命題に欠陥があることは別の問題として)。

この問題を解くには、何か新しい切り口が必要だと思う(例えば、「クオリア」という切り口から考えるなど)。

僕はこの問題を考え続けるつもりなので、何かこの問題に対して新しい知見が得られれば、このブログ上で紹介して行きたい。

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