とあるバハイ教徒の日記:第二支部

神の存在証明と地球温暖化防止

この世に真なる命題はあるのか?

命題とは、論理学において判断を言語で表したもので、真または偽という性質をもつもののことを言う。また、数学で真偽の判断の対象となる文章または式も命題である。

伝統的論理学において、命題は以下の3種類の分類される。

(a) 全称命題 「すべてのSはPである」
(b) 特称命題 「あるSはPである」
(c) 単称命題 (特定の個体である主語に論及するもの)(例)「プラトンは哲学者である」

しかし、デカルトの方法的懐疑を適用すれば、一般に真なる命題とされるものは全て崩れてしまうのである。

全称命題である「トンボは昆虫である」は一般に真なる命題であるが、この世が仮想現実であるなら、トンボはバーチャルリアリティが作り出した幻で、実在しないものということになる。

また、自分も含めた人間も皆、バーチャルリアリティが作り出した幻かも知れない。

デカルトはそのように全てを疑った上で、唯一疑い得ないものは「自分は存在しないのではないか?と疑っている存在者が存在すること」だと考えた。

つまり、唯一真なる命題は「私は考える」「ゆえに私はある」という命題であると考えた。

この命題(私は考える、ゆえに私はある)は一見、堅固な真理であるように見える。

しかし、サルトルとエックハルト・トールによれば、「私が考えていることに気づいたとき、気づいている意識はその思考の一部ではない。別の次元の意識だ」と考えられるのである。

つまり、「私は考える」と気づいている時の「私」は「普段の自分」とは異なる存在者である、というのである。

この論法を用いれば、唯一、真なる命題と考えられる「私は考える」「ゆえに私はある」という命題も真とは言えないのではないか?という疑問が生じる。つまり、「普段『自分』と思っている自分は存在しない」のが真実かも知れない(例えば、アーサー・ケストラーは精神的な極限状態でそういう「自分が消える」神秘体験をした)。

このように考えれば、「真なる命題」はこの世には存在しないのではないか?と考えることも可能になる。

般若心経の始まりの文に「観自在菩薩・行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。」とあるが、この『照見五蘊皆空』とは五蘊(色・受・想・行・識)が全て空であると「理解(照見)した」ということである。

よって、仏教の悟りの状態においても、「真なる命題はない」という結論になるのではないのだろうか?

このように考えると、西欧の伝統的論理学は基礎が危うくなってくる。

では、この世の中で真なるものは一体何なのだろうか?

この点はインド哲学(仏教を含む)が追及しているようなので、また時間があれば探究してみたい。

追記
なお、伝統的論理学は、思考の道具としては非常に有用である。後正武著「論理思考と発想の技術 (PHP文庫)」などが使える論理学として有名である。

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