とあるバハイ教徒の日記:第二支部

神の存在証明と地球温暖化防止

デカルトはこの世を仮想現実と考えていた?

「我思う、ゆえに我あり」という命題で有名なデカルトであるが、この命題は「方法的懐疑」という思考から導き出されたものである。

この「我思う、ゆえに我あり」から神の存在証明に辿りつく論考は「神の存在、及び人間の霊魂と肉体との区別を論証する、第一哲学についての省察」という書名の本として青空文庫 http://www.aozora.gr.jp/cards/001029/files/43291_21543.html で読むことが出来る。

僕もこの論考を少し読んでみたのだが、かなり複雑な論考がなされており、本日のブログだけでその概要をまとめることは僕の能力を超えている。

ただ、神への信仰が揺らぎつつあったデカルトの時代に、彼が客観的な神の存在証明をしようと努力している心情は痛いほど分かる。このデカルトの論考の問題意識は、現在でも引き継ぐべきであると僕は感じた。

そこで、デカルト「省察」を分かりやすく解説したウェブ情報を探したのだが、平原卓氏のウェブサイトに興味深い説明があったので紹介させて頂く。

(以下、引用 https://www.philosophyguides.org/decoding/decoding-of-descartes-meditationes/

夢と現実は区別できない?

デカルトは次のように続ける。

(原文の平原氏による解読)
感覚は私を誤らせることがある。しかしそうでない場合もある。いま私がここにいることをどうして否定できるだろうか。そうしようとするのは狂人くらいだ。しかし私は、眠りに入ると、そこでもまた自分はいまここにいると考えることだろう。

確かに、いま私は目覚めている。この手を意識して伸ばし、かつ伸ばしていることを感覚する。しかし私は、夢のなかで同じような考えにだまされたことを思い出さずにはいられない。

以上のことをより注意深く考えてみると、夢と現実を区別する確実な根拠をどこにも見いだすことができないことに気づかされる。
(解読終わり)

ここでデカルトは、私たちが見ているのは現実ではなく夢だとあえて想定して、以下のように言う。

(原文の平原氏による解読)
手についてのイメージをもつためには、その元となる手がなければならない。また、空想上のキャラクターを描くためには、たとえそのキャラクターが空想であっても、色それ自体は真のものでなければならない。これと同様のことが事物の性質一般についても言える。形や量、場所、時間など。

しかし私は次のような説があることを知っている。全能の神が存在し、この神によって私はいまあるものとして造られたのだ、と。そうすると、私は神によって、形や量、場所などがあると思うように(実際はそんなものはないにもかかわらず)造られた、と考えることもできる。

こう考えると私は次のように言わざるをえない。かつて私が真とみなしたもののうちで、一切の疑いを容れないようなものは何一つ存在しない、と。
(解読終わり)

(引用終わり)

このデカルトの発想(この世は神が作り出した仮想現実である)は、http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-56.html で僕が書いたことと同じ発想なのである。

これは単純な理由で、全てを疑う方法論を採用すると、自分の見ている世界も夢のようなものかも知れないと考えられるからである。そして、その「夢」を造っているのは神であるとするのが最も合理的な発想なのである(物理的な力が夢の原因であると考えるのは少し無理がある)。

デカルトはさらに、この世が神の造った夢のようなものだという仮説に付け加え、さらに一切は悪い霊が作り出した幻かも知れないという仮説にまで踏み込むのである。

(以下引用、デカルト「第一哲学についての省察」より)

ここで、意志をまったく反対の方向に曲げて、私自身を欺き、それらの意見をしばらくの間まったく偽りで幻のものと仮想してみよう。

真理の源泉である最善の神がではなく、ある悪い霊が、しかも、このうえなく有能で狡猾な霊が、あらゆる策をこらして、私を誤らせようとしているのだ、と想定してみよう。

(引用終わり)

ここまで来ると、方法論的懐疑も行き過ぎなような気がするのだが、デカルトはこの「一切は悪い霊が作り出した幻」という仮説は確実な根拠をもたない「こじつけ」であると否定するのである。

そして、デカルトは次のような考えに辿りつくのである。

(以下、引用 https://www.philosophyguides.org/decoding/decoding-of-descartes-meditationes/

(原文の平原氏による解読)
私のうちにある観念の原因を私自身のうちに見出すことができず、自分がその原因でないことを確信するならば、ここから必然的に、世界にただ私だけが存在しているのではなく、その原因もまた存在するのでなければならないことが導かれる。

ここで、神の観念について考えてみたい。ここでいう神とは、完全で無限、全能であり私を、そして他のものがあるとすれば、それらを創造した実体のことだ。

(以下引用、デカルト「第一哲学についての省察」より)
右に述べられたところからして、神は必然的に存在する、と結論しなくてはならないのである。

なぜなら、私は実体である、というそのことから、確かに実体の観念が私のうちにあるにしても、だからといってその実体の観念は、—私が有限なものであるゆえ—真実に無限であるところの、ある実体からでてきたのでないかぎり、無限な実体の観念ではありえないはずであるから。

(引用終わり)

これがデカルトによる神の存在証明の第一段階である。これは現代人には詭弁としか思えないが、それでも現代スピリチュアリズムより重厚な響きのする言葉である。

なお、デカルトによる神の存在証明はカントによって否定されてしまうのだが、それでも近代哲学がここ(方法的懐疑)から始まったことは否定のしようがない事実なのである。

以上を考えると、スピリチュアリズムは近代哲学の議論で補強する必要があるのではないか、感じたところである。

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