とあるバハイ教徒の日記:第二支部

神の存在証明と地球温暖化防止

「我思う」と思考する主体と、それに気づく主体は別である:その1

本日の日記のタイトルは、妙なタイトルである。

しかし、スピリチュアリズムを理論化する際、これは避けられない問題である。

このため、何回かに分けてこの『「我思う」と思考する主体と、それに気づく主体は別である』というテーマについて書くことにする。

まずは、2017年4月15日の日記 http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-19.html のおさらいから始める。

演繹法は完全な証明を引き出せる論理的推論である。

NAVERまとめにある演繹法の説明 https://matome.naver.jp/odai/2139625697364840601 には、以下のような例が示されている。

「人間はみな死ぬ」(大前提) → 「徳川家康は人間である」(小前提) → 「徳川家康は必ず死ぬ」(仮説。この仮説は正しい)

論理学では、この推論を「混合仮言三段論法の肯定式」と呼ぶ。

これをデカルトのコギト命題に当てはめると、「我思う、ゆえに我あり」という論理的推論は、本来は、

「全て考えるものは存在する」(大前提) → 「私は考えている」(小前提) → 「ゆえに私は存在する」

でなければならない、と哲学者ガッサンディは指摘した。

しかし、デカルトはガッサンディより高度な事を考えていた。それは、「全て考えるものは存在する」という大前提は疑わねばならない(自明とは言えない)という事である。

自分自身が考えていることは自明であっても、「自分以外の人間が考えている」ことは自分には分からないからである。例えば、このブログを書いている都雄次という筆名の人間は「考えているのだろうか?」と疑うことが可能なのである。このように、大前提が疑わしければ、「私は存在する」まで疑わしくなってしまう。

したがって、デカルトは考えに考え抜いた上で、「我思う、ゆえに我あり」という、論理的推論としては不完全な命題を彼の哲学の出発点とせざるを得なかった、と考えることが出来るのである。

ここで、僕の座右の書であるエックハルト・トール著「ニュー・アース」の出番になる。「ニュー・アース」p.64には概ね以下ような事が書いてある。

デカルトより三百余年後になって、哲学者ジャン・ポール・サルトルが次のような事に気づいた。『「我あり」と言っている意識は、考えている意識とは別だ』ということ、そして、それが意味するところは、「自分が考えていることに気づいたとき、気づいている意識はその思考の一部ではなく、別の次元の意識だ」ということである。

「ニュー・アース」では続いて次のような事が書いてある。「あなたのなかに思考しかなければ、思考しているなんてことはわからないだろう。自分が夢を見ているのに気付かない夢中歩行者のようなものだ。」

では、その「気付いている意識」(思考の一部ではない、別の次元の意識)とは一体、何者なのか?

エックハルト・トールは、その「気付いている意識」を「大いなる存在(Being)」と呼んでいる。普通、英語で単語が大文字で始まる単語は「神」に関わる概念であることから、その「気付いている意識」は、何か神と関わりのある意識であると考えられる。

したがって、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という命題を徹底的に考えることは、それ自体がスピリチュアリズムで言う「大いなる存在」を考えることに繋がってくるのである。

しかし、残念ながら、僕自身は『「我思う」を気付いている、大いなる意識』を考えることだけでは、リアリティを持って神と関わりのある意識であると捉えることは出来ない。

結局、「大いなる意識」を捉えるには瞑想状態など、脳が特殊な状態になることでしか捉えることが出来ないのだろうか?そうなると、「客観的な神の存在証明」など出来ない、ということになりはしないか?

本当は、本日の日記では、コギト命題を元にして神の存在証明に至ったデカルトの思考過程を解説する予定だったのだが、どうもコギト命題そのものが神と関わっている事が分かってしまった。

という事で、明日以降の日記に何を書けば良いのか、迷いが生じてしまっているのだが、とにかく、「我思う、ゆえに我あり」についてもう少し掘り下げて行くことにしたい。

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