とあるバハイ教徒の日記:第二支部

神の存在証明と地球温暖化防止

演繹法とは何か

http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-17.html の中で僕は『アブダクションを用いた論理的推論は「神の存在証明」としては不完全であるということになる』と結論した。

これまで書いて来たように、論理的推論には演繹・帰納・アブダクションの3種類がある。

僕は、これら3種類の論理的推論において「アブダクション」がもっとも有力な候補であると考えて来た。しかし、そのアブダクションが神の存在証明としては不完全だとわかってしまったのである。

ということは、残りの演繹と帰納を神の存在証明に用いることを検討しなければならなくなって来た。今回はそのうち、演繹について考えて見ることにする。

まずは、演繹を用いた神の存在証明は後日に検討することにして、本日は演繹そのものについて、考えてみたい。

演繹についてはwikipediaでも説明されているのだが、このwikipediaの説明は分かりやすいとは言えない。そこで、より分かりやすいNAVERまとめから該当部分を引用する。

(以下、引用 https://matome.naver.jp/odai/2139625697364840601

(前略)
演繹法は、「××だから、○○である」という論理を数珠つなぎにしていき、結論を引き出す方法です。

演繹法とは、一般論やルールに観察事項を加えて、必然的な結論を導く思考方法のことです。三段論法とも言われます。

「演繹法」は,ルール(大前提)から結論を導き出す思考の経路

演繹法による証明の例:
「人間はみな死ぬ」(大前提) → 「徳川家康は人間である」(小前提) → 「徳川家康は必ず死ぬ」(仮説。この仮説は正しい)

他の例その1:
「日本は高齢化が進んでいる」→「だが高齢者向けの施設は少ない」→「高齢者向けの施設を建設すればお客さんが集まる」

他の例その2:
「野菜は栄養がある」→「にんじんは野菜だ」→「だから、にんじんは栄養がある」
(後略)

(引用終わり)

僕の手元にある、近藤洋逸・好並英司著「論理学入門」には「混合仮言三段論法の肯定式」「混合仮言三段論法の否定式」「純粋仮言三段論法」「選言三段論法」「構成的ディレンマ」「破壊的ディレンマ」「簡約」「連言」「添加」の9種類の演繹を用いた推理が解説されている。

論理学の入門書でも、演繹についてはこれだけ複雑な推理形式が解説されており、それらは基本的には数学的な記述がなされているのだが、この日記ではそれら9種類の演繹を説明している余裕はない(僕の能力的、時間的、スペース的な都合上)。

したがって、上記のNAVERまとめの演繹法による証明の例で問題はないと考えることにする。なお、NAVERまとめの証明の例はどれも「混合仮言三段論法」であり、この論法だけが演繹法による証明ではないという事をお断りしておく。

さて、我々が演繹法を用いて証明したい事は何なのか?

それは「神は存在する」という仮説(演繹法では正しい仮説になる)である。

それでは、どういった大前提・小前提を用いれば「神は存在する」という演繹推理が可能になるのだろうか?

僕の考えでは、デカルトが演繹推理を用いた神の存在証明にトライしており、そこでの大前提は「私は存在する」という命題なのである。確かに、この「私は存在する」という命題は僕にとっても、大方の皆さんにとっても正しい命題のように思える。

今日の日記はここまでの考察とするが、次はまずデカルトによる神の存在証明について検討することにしたい。

P.S.
wikipediaでも他のサイトでも、「神の存在証明」について、論理的推論には演繹・帰納・アブダクションの3種類があるという議論を持ち出した説明がどこにもないのはなぜなのだろうか?まさか、誰もこの点に気づいていないとは思えないのだが・・。

P.S.2
上記のNAVERまとめの例は、演繹推理としては妥当でないかも知れない。例えば、「日本は高齢化が進んでいる」→「だが高齢者向けの施設は少ない」→「高齢者向けの施設を建設すればお客さんが集まる」において、施設を建設してもその入居費が高すぎればお客さんは集まらない。また、この「日本は高齢化が進んでいる」に基づく推論が三段論法であるか、他の論法であるか、僕には分からない。このように、演繹推理を使いこなすのは難しいのである。

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