とあるバハイ教徒の日記:第二支部

神の存在証明と地球温暖化防止

神は存在するのか?しないのか?

皆さんの多くは、「神なんて存在しない」と思っていると僕は想像する。

変な話だが、バハイ教徒である僕も、つい最近まで「神なんて存在しないのでは?」と思っていた。

また、「利己的な遺伝子」で有名なリチャード・ドーキンスもミリオンセラー「神は妄想である」の中で次のような意見を述べている。

(以下、引用 https://ja.wikipedia.org/wiki/神は妄想である

ドーキンスはこの本の中で、科学的精神こそが唯一真に普遍的且つ合理的なものだとする見解を開陳し、キリスト教を筆頭にあらゆる宗教はそれに反する邪悪且つ人類の進歩にとって有害なものであるとして、全ての宗教と神秘主義に批判的になることそして科学的に考えることが重要なのだ、と訴えている。
(中略)
批判の俎上に挙げられているのは、主に一神教、多神教を問わず超自然的な人格神および原理主義、宗教教育であり、各民族の文化的・文学的伝統や結婚、葬式などの儀礼、仏教や道教などの哲学的な側面までは否定していない。

(引用終わり)

しかし、良く考えて欲しい。科学的・論理的に「神は存在しない」ことを証明することは出来ないことを(神は人間が五感で感じる事は出来ないし、どんな分析器を使っても検出出来ないので)。

結局、どこまで科学的・論理的に考えても神が存在するか、しないないかは「分からない」としか言いようがない。

という事は、「神なんて存在しない」という考えも、ある種の「妄想」だということになる。しかし、どう論理的に考えても「神が存在するか、しないかは『分からない』」のに皆さんの多くは「神なんて存在しない」と考えてしまうのだろうか?

実は、この問題(神が存在するか、しないかは『分からない』」のに教育水準の高い現代人の多くが「神なんて存在しない」と考えてしまうこと)は現代文明におけるミステリーなのである。

しかし、神の存在を信じる人も同様な「妄想」に陥っている。つまり、どう哲学的・論理的に考えても「神が存在する」ことを証明することは出来ないのである。この難問に挑んだ哲学者カントは以下のような事を述べている。

(以下、引用 http://philosophy.hix05.com/Kant/kant115.god.html

(前略)
しかし、太古以来、人間は神の存在を信じて疑わなかった。それはそれで、敬意を表すべき態度であるが、しかし、世の中には、人間の思弁的な理性に基づいて神の存在を証明しようとしたがる人たちがいる。そういう人たちは、神という理想を人間の認識能力の枠の中に当てはめようとして、かえって神の尊厳を損なっているのである。そうカントは言って、神の存在を思弁的理性に基づいて証明しようとする試みを批判する。純粋理性批判の中でも、もっとも問題意識に富んだ部分である。
(中略)
このようにカントは、思弁的理性による神の存在証明の試みを、ことごとく退けるわけであるが、それは、神は認識の対象となりうるような客観的実在ではないということを主張したにすぎず、神の意義そのものまで否定したわけではない。カント自身は、神をめぐる崇高な理念に重大な意義を付与しているのみならず、神が実在する可能性についても、否定しているわけではないのである。しかし、その実在性は、我々の認識によってはとらえることができない。それは、我々の認識が現象にかかわることに留まり、物自体には及ばないのと同じことである。そうカントは言うわけである。
(後略)

(引用終わり)

つまり、神を信じる人たちがどこまで哲学的・論理的に考えても、神が存在するか、しないないかは「分からない」としか言いようがないのだ。

つまり、結論として、神が存在するか、しないないかは客観的に考えると「分からない」のであり、それを「存在しない」とか「存在する」と考える人たちは思考が偏っているのである(「妄想に陥っている」と言っても良い)。

しかし、この話には続きがあり、僕は「神が存在する」ことをある特殊な精神状態の中で「感じて」しまったのだ。
(この話の続きは、またいつか書きます。)

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