とあるバハイ教徒の日記:第二支部

神の存在証明と地球温暖化防止

バハイ教徒の僕がなぜスピリチュアリズムの世界に足を踏み入れるのか?

宗教の信徒は通常、その人が所属する宗教・宗派の経典のみを頼りに自らの世界観を築くものである。

その考えを僕にあてはめると、僕はバハイ教徒であるから、バハイ教の経典のみから自らの世界観を築くべしということになる。

しかし、僕はエックハルト・トールを中心としたスピリチュアリズムからも自らの世界観を築こうとしている。

この僕の行為はバハイ教に背くものかというと、僕はそうは考えていない。その根拠は、バハイ教の教義には「真理を自分の力で探すこと」という教義が含まれているためである。

日本バハイ共同体のホームページには、具体的に以下のように書かれている。

(以下引用、http://www.bahaijp.org/bahai-towa/バハオラの教え

2.真理を自分の力で探すこと

人は自分の力で真理を探究しなければならない。古い習慣や伝統を盲目的に守るだけでは、いつまでたっても社会に進歩をもたらすことはできな い。真理を探究するときには、先入観を完全に捨てることが必要である。 自分の考えや信念と矛盾するからといった、すぐに拒絶せず、公平な判断力と知力を駆使して真偽をたしかめるべきである。

「その(正義)の助けにより、他人の眼でなく自分の眼で見、隣人の理解力でなく、自分の理解力で知りなさい……」(かくされたる言葉、 p.4)

(引用終わり)

僕はエックハルト・トールの思想に共鳴する部分があったので、彼の著書をバハイ教の教義と同様に重視しているのであるが、一方でエックハルト・トールの思想が絶対的であるとは考えていない。

人間の認識力には限界があり、エックハルト・トールが完全な真理を語っていると見なすのは無理であると僕は考えている。

例えば、エックハルト・トールは、宗教的戒律は不要であると書いているが、僕は人間の判断力は不完全であるから、判断力を矯正する手段としての戒律は有効であると考えている(例えば、嘘と陰口を言ってはいけない、等)。

だから、エックハルト・トールの著作を読むにあたっても、常に批判力を持って読まなければならない。エックハルト・トール自身、自分を教祖と捉えられたくないと考えているだろう。

では、バハイ教の経典については、どう考えれば良いのだろうか?これも批判力を持って読むべきなのか?

これは非常に難しい問題である。なぜなら、バハイ教徒は創始者であるバハオラを「神の顕示者」と認めることが前提だからである。

僕は基本的にバハオラを神の顕示者であると考えている。その根拠は、政治的に遅れた地域にあるイラン(ペルシャ)において、1860年代に「世界は1つの国家である」「全国家が軍事力を放棄すべき」「男女の平等」「極端な貧富の差の排除」「全ての人に義務教育を与えること」という超近代的な世界像を示したからである(なお、バハオラは正式な教育を受けておらず、全ては彼自身のインスピレーションから出たものである)。

しかし、僕はバハオラの書いたものが一字一句真理だとは考えていない。バハオラも人間である以上、神の心を完璧に文章にすることは無理であると僕は考えている。

そういう事でバハイ教の教義が言う通り「真理を自分の力で探すこと」が重要になってくると僕は考えるのである。これは容易いことではない。デカルトやカントが自らの脳の力を全力で振り絞って考えたような思考が必要になるのである。

では果たして、僕の脳でどこまで真理の探究が出来るのだろうか?それを考えると、僕は自分の人生に絶望してしまうのである(結局、僕はこれまで他の人が出してきたアイディアに何も付け加えるものなしに自分の人生を終えてしまうのではないか、と絶望してしまうのである)。

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