とあるバハイ教徒の日記:第二支部

神の存在証明と地球温暖化防止

「我思う」と思考する主体と、それに気づく主体は別である:その3

「我思う、ゆえに我あり」という命題について、この日記ではエックハルト・トールの思想に基づいて考えて来た。

しかし、エックハルト・トールが正しいという保証はどこにあるだろうか?例えば、デカルトとエックハルト・トールを比較して、エックハルト・トールの方が正しいとどうして言えるのだろうか?本日はこの問題を考えてみたい。

まずは、デカルトの考え方を振り返ってみることにする。デカルトの思考を分かりやすく解説しているサイトに「哲学的な何か、あと科学とか」というサイトがあるので、それを以下に引用する。

(以下、引用 http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/wareomou.html

デカルトは、全てを疑った。疑って、疑って、疑い続け、それでも正しいといえるものは何かを根気強く考え続けた。そしてある日、天啓のような考えがひらめく。

「我々が認識するものは、すべて嘘かもしれない。でも、それを疑い続けているものがいるということだけは真」であると。

たとえ、「疑っている」ということを疑ったとしても、やっぱり「何かを疑っている」ことは真なのだ。

たとえ、すべてが夢であっても、その夢を見て、夢じゃないかと疑っている自分が存在することは決して疑えない。

この世のすべてが、信じられないものであろうとも、それを『疑っている何者かが存在すること』は、絶対的な真実なのだ。

(引用終わり)

上記の引用文は一見、論理的に誤りがないように見える。しかし、一点だけ重要な疑問点があるのである。

それは「疑っている主体は一体誰なのか?」という点である。ここにサルトルが目を付けたわけである。すなわち、「『我あり』と言っている意識は考えている意識とは別ではないか」と疑ったわけである。エックハルト・トールによれば、「自分が考えていることに気づいたとき、気づいている意識はその思考の一部ではない。別の次元の意識だ」という思考が可能であることである。

では、この「気づいている意識はその思考の一部ではない。別の次元の意識だ」という命題は真(正しい命題)だろうか?これについては、現時点では、誰にも分からないとしか言えない。つまり、デカルトの言うように「気づいている意識」が「我自身」である可能性もまだ捨てきれないのだ。これは結局、科学的に解決するしかないのではないだろうか。

我々は一日の大部分を「私は今、考えている」こと自体を考えたり、疑ったりして生きているわけではない。一日のほとんどの時間、あるいは全ての時間を「自分の思考」を思考する以外に費やしているわけである。「私は今、考えている。この私とは誰だろう?」などと考えて過ごしているのはよほどの暇人か哲学の専門家だけではないだろうか?

しかし、エックハルト・トールは、現実を夢に例えて「自分が夢を見ていると気づけば、夢の中で目覚める。別の次元の意識が入り込む」と主張する。もっと言えば、「自分が思考している」ことに気づくことにより、明晰夢のように現実世界から新しい次元の意識が生まれる、また、そうして新しい次元の意識を生み出す必要性が現在の世の中には必要なのである、と主張するわけである。

この「自分が思考していることに気づく」ことが一種の悟りに繋がる、という思想は一見、「思考を止める」ことで悟りが得られるというエックハルト・トール自身の主張と対立するように見える。しかし、今自分が考えていることを一歩心の奥に立って観察し続ければ、それは悟りに繋がって行くのかも知れない。思考を観察するだけならば、思考を止めるよりもずっと容易である(もっとも、エックハルト・トールは「思考は観察すれば止まる」と言うのだが)。

いずれにせよ、デカルトのいう「我思う」状態を観察し続けることが悟りに繋がる、というのが本日の日記の結論になった。これはエックハルト・トールの思想が正しいと仮定した上での論理的な結論であるのだが、それなら、まずは僕自身がこれを実行して少しでも悟りに近づけないか試してみようと思う。

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