とあるバハイ教徒の日記:第二支部

神の存在証明と地球温暖化防止

デカルトはこの世を仮想現実と考えていた?

「我思う、ゆえに我あり」という命題で有名なデカルトであるが、この命題は「方法的懐疑」という思考から導き出されたものである。

この「我思う、ゆえに我あり」から神の存在証明に辿りつく論考は「神の存在、及び人間の霊魂と肉体との区別を論証する、第一哲学についての省察」という書名の本として青空文庫 http://www.aozora.gr.jp/cards/001029/files/43291_21543.html で読むことが出来る。

僕もこの論考を少し読んでみたのだが、かなり複雑な論考がなされており、本日のブログだけでその概要をまとめることは僕の能力を超えている。

ただ、神への信仰が揺らぎつつあったデカルトの時代に、彼が客観的な神の存在証明をしようと努力している心情は痛いほど分かる。このデカルトの論考の問題意識は、現在でも引き継ぐべきであると僕は感じた。

そこで、デカルト「省察」を分かりやすく解説したウェブ情報を探したのだが、平原卓氏のウェブサイトに興味深い説明があったので紹介させて頂く。

(以下、引用 https://www.philosophyguides.org/decoding/decoding-of-descartes-meditationes/

夢と現実は区別できない?

デカルトは次のように続ける。

(原文の平原氏による解読)
感覚は私を誤らせることがある。しかしそうでない場合もある。いま私がここにいることをどうして否定できるだろうか。そうしようとするのは狂人くらいだ。しかし私は、眠りに入ると、そこでもまた自分はいまここにいると考えることだろう。

確かに、いま私は目覚めている。この手を意識して伸ばし、かつ伸ばしていることを感覚する。しかし私は、夢のなかで同じような考えにだまされたことを思い出さずにはいられない。

以上のことをより注意深く考えてみると、夢と現実を区別する確実な根拠をどこにも見いだすことができないことに気づかされる。
(解読終わり)

ここでデカルトは、私たちが見ているのは現実ではなく夢だとあえて想定して、以下のように言う。

(原文の平原氏による解読)
手についてのイメージをもつためには、その元となる手がなければならない。また、空想上のキャラクターを描くためには、たとえそのキャラクターが空想であっても、色それ自体は真のものでなければならない。これと同様のことが事物の性質一般についても言える。形や量、場所、時間など。

しかし私は次のような説があることを知っている。全能の神が存在し、この神によって私はいまあるものとして造られたのだ、と。そうすると、私は神によって、形や量、場所などがあると思うように(実際はそんなものはないにもかかわらず)造られた、と考えることもできる。

こう考えると私は次のように言わざるをえない。かつて私が真とみなしたもののうちで、一切の疑いを容れないようなものは何一つ存在しない、と。
(解読終わり)

(引用終わり)

このデカルトの発想(この世は神が作り出した仮想現実である)は、http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-56.html で僕が書いたことと同じ発想なのである。

これは単純な理由で、全てを疑う方法論を採用すると、自分の見ている世界も夢のようなものかも知れないと考えられるからである。そして、その「夢」を造っているのは神であるとするのが最も合理的な発想なのである(物理的な力が夢の原因であると考えるのは少し無理がある)。

デカルトはさらに、この世が神の造った夢のようなものだという仮説に付け加え、さらに一切は悪い霊が作り出した幻かも知れないという仮説にまで踏み込むのである。

(以下引用、デカルト「第一哲学についての省察」より)

ここで、意志をまったく反対の方向に曲げて、私自身を欺き、それらの意見をしばらくの間まったく偽りで幻のものと仮想してみよう。

真理の源泉である最善の神がではなく、ある悪い霊が、しかも、このうえなく有能で狡猾な霊が、あらゆる策をこらして、私を誤らせようとしているのだ、と想定してみよう。

(引用終わり)

ここまで来ると、方法論的懐疑も行き過ぎなような気がするのだが、デカルトはこの「一切は悪い霊が作り出した幻」という仮説は確実な根拠をもたない「こじつけ」であると否定するのである。

そして、デカルトは次のような考えに辿りつくのである。

(以下、引用 https://www.philosophyguides.org/decoding/decoding-of-descartes-meditationes/

(原文の平原氏による解読)
私のうちにある観念の原因を私自身のうちに見出すことができず、自分がその原因でないことを確信するならば、ここから必然的に、世界にただ私だけが存在しているのではなく、その原因もまた存在するのでなければならないことが導かれる。

ここで、神の観念について考えてみたい。ここでいう神とは、完全で無限、全能であり私を、そして他のものがあるとすれば、それらを創造した実体のことだ。

(以下引用、デカルト「第一哲学についての省察」より)
右に述べられたところからして、神は必然的に存在する、と結論しなくてはならないのである。

なぜなら、私は実体である、というそのことから、確かに実体の観念が私のうちにあるにしても、だからといってその実体の観念は、—私が有限なものであるゆえ—真実に無限であるところの、ある実体からでてきたのでないかぎり、無限な実体の観念ではありえないはずであるから。

(引用終わり)

これがデカルトによる神の存在証明の第一段階である。これは現代人には詭弁としか思えないが、それでも現代スピリチュアリズムより重厚な響きのする言葉である。

なお、デカルトによる神の存在証明はカントによって否定されてしまうのだが、それでも近代哲学がここ(方法的懐疑)から始まったことは否定のしようがない事実なのである。

以上を考えると、スピリチュアリズムは近代哲学の議論で補強する必要があるのではないか、感じたところである。

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ロッキード社の小型核融合炉計画はその後どうなったか

核融合は究極的なエネルギー源と考えられている。

もし、それが商業的なレベルで実用化されれば、地球温暖化問題もエネルギー問題も解決される可能性が高い。

しかし、従来、核融合炉の実用化は2050年あたりとされてきた。http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-3.html で書いた通り、CO2削減は今後20~30年の対策が重要であるため、2050年の実用化では温暖化対策には間に合わない。

そこに驚くべき発表がなされたのである。2014年に米ロッキード社が10年以内にトラックに積み込める大きさの100メガワット級商用小型核融合炉を開発すると発表した。つまり、2024年には核融合炉が実用化するというのである。

このニュースは世界中で驚きを持って報道された。ロッキード社の当該サイトは http://www.lockheedmartin.com/us/products/compact-fusion.html にあるが、Facebookの「いいね!」が1万4千も付いている。

ただし、ロッキード社のこの発表に対しては、多くの科学者が懐疑的な意見を持っていた(例えば、http://www.businessinsider.com/scientists-bash-lockheed-on-nuclear-fusion-2014-10 )。

そして、ロッキード社はその後しばらく沈黙を保ってきたのである。

しかし2016年になり、ロッキード社は2014年に発表した炉とは異なるデザインの小型核融合炉を発表した。

その概要は http://fusion4freedom.us/pdfs/McGuireAPS.pdf に示されている。ここで示された炉は長さ18メートル、直径7メートル、重さ2000トンであり、2014年に発表された炉より約100倍大きくなっている(2014年発表の炉は長さ2メートル、直径1メートル、重さ20トンであった)。

元々、ロッキード社の核融合炉の長所は、小型化することにより開発のスピードを上げられるという点にあった。この点で100倍大きくなると開発スピードが遅くなる可能性がある。もし、ロッキード社の核融合炉が2040年くらいに実用化ということであれば、地球温暖化対策に間に合うとは言えなくなる(最低2030年からの実用化が必要)。

化石燃料への依存から脱出するには、自然エネルギーと何らかの新エネルギーが必要であり、新エネルギーの候補としてはトリウム溶融塩原子炉の方が核融合よりも実用化の時期が早いと考えられる。

ただ、民間レベルでの核融合炉開発が始まったこと自体は進歩であり、今後、世界中で民間企業がこうした新エネルギー開発に乗り出してくることを期待したい。

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この世が仮想現実であれば、地球温暖化は何なのか?(1)

過去2回のブログ http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-54.htmlhttp://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-55.html において、この世が仮想現実である可能性を僕自身の経験から検討した。

その結果、特に http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-55.html の経験はこの世が仮想現実である仮説を支持するものとなっていると結論した(もちろん、現時点では仮説の域を出ないのだが)。

では、仮にこの世が仮想現実であれば、地球温暖化問題は何なのだろうか?仮想現実なので温暖化など進んでも構わない、と考えられるのだろうか?

この問いに対する答えを僕は持っていない。

しかし、ひとつ言えることは、バーチャルリアリティーのゲームプレーヤーが仮想現実を本当の現実と思い込んで真剣にプレーしているように、我々はこの現実が仮想であろうと本当であろうと真剣に生きていることである。

仮想だからいいかげんに生きても良いとは考えていないのである(仮想だとしても、我々の体験している世界は、今目の前に展開しているこの世界だけである)。

ということで、地球温暖化問題についても仮想だからどうでも良いと我々は考えないのである。結局、この世が仮想であろうが本当であろうが地球温暖化問題は深刻な問題なのである。

もうひとつの視点は、宗教的になるが「神は解決不可能な問題は与えない」ということである。

http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-35.html で説明したが、地球温暖化は「囚人のジレンマ」型ゲームになっており、地球温暖化を解決するには利己だけでなく利他のマインドを持たなければならなない。

神は現代人に利他のマインドを持って欲しいがために地球温暖化という問題を与えた、と考えることも出来る。

この世が仮想現実であれば地球温暖化問題の無い世界もあるのかも知れないが、その世界では利他のマインドを持たなくても全てが物質的に解決してしまうのである。果たして、そういった世界の方が良いのだろうか?

地球温暖化問題はむしろ、世界の人々が団結して互いに利他のマインドを持つことが解決法で、しかもそれが可能だ(神はこの世界に解決不可能な問題を作らない)という点で、この問題を解決することにより素晴らしい未来が人類にもたらされる、人類の希望をもたらす問題であるとポジティブに捉えることが可能なのである。

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この世が仮想現実であるかも、という個人的体験(2)

昨日のブログ http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-54.html では僕の妻が妙なアクセントの方言で話しはじめた体験について書いた。

本日のブログでは、それと並行して起こっていたより奇妙な現象について書くことにする。

なお、ブログを始めた頃は、この事は隠して置こうと考えていた。それは、あまりに奇妙で科学的に説明が付かないためである。

僕は2012年4月に躁状態になった時、視野の左上1/4くらいの部分に沢山のサムネイルを見たのである(Windowsのデスクトップ画面にアイコンではなくサムネイルを出したような感じである)。

それぞれのサムネイルは正方形かやや縦長の長方形かであり、それらの集合体は視野の左上1/4くらいの部分でほぼ正方形を形作り、サムネイルとサムネイルの間隔はかなり狭かった。

なお、サムネイルとサムネイルの間には僕の見ている視野内のものが見えた(つまり、WindowsやMacのバックグラウンド画面と同じである)。

そして、個々のサムネイルの中身は僕の視野に見えるものとは別のものが見えた。それも静止画ではなく、動画で見えたのである。

このようなサムネイルがコンピューターのデスクトップ画面ではなく、生身の人間である僕の視野に見えたのである。

昨日のブログで書いた「僕の妻が妙なアクセントの方言で話しはじめた体験」においては、それを僕の幻聴と捉える解釈も可能である。

しかし、今日書いた「視野に沢山のサムネイルを見た体験」では、それを幻覚と捉える解釈は非常に困難である。

例えば、沢山のサムネイルのひとつには僕の妻の顔が映っていたが、その時、僕は妻の方を向いていなかったのである。これは、僕の意識(目で見る視野ではない)の何かが妻の方を見て、それをサムネイル化して僕の視界に映し出したと考えられる(幻覚と捉える考えも出来ないわけではないが、幻覚とするのはかなり無理がある)。

体外離脱した人が自分の姿を見ることがある、というのは良く聞く話であるが、もしかするとサムネイルの中の画像は体外離脱時と同じように、目ではない何かが見ていると考えることが出来るのではないだろうか。

なお、僕は最後には気絶してしまったのだが、気絶の直前には視野のバックグラウンドは真っ暗で、視野全域にサムネイルだけが見えている状態であった。

この「視野に沢山のサムネイルを見た体験」は、人間の意識が仮想現実であると考えると辻褄が合う。脳はコンピューターと異なり、サムネイルを作成して視野に映し出す機能は持っていないのである。

我々の意識を作り上げているものは、何か脳とは別に存在するのではないだろうか?そして、我々は皆、脳とは別のものが作り上げた仮想現実の世界を見続けていると考えると良いのかも知れない。

しかし、我々の体験する世界が仮想現実だと考えると辻褄が合うとしても、何かピンと来ないものがある。それは、我々が仮想現実の世界にどっぷりはまっており、それを「仮想」であると捉えることを我々の感覚が阻むからである。

また、仮想現実と神との関係は一体、どうなっているのだろうか?仮想現実は神が作り出しているのだろうか?

いずれにせよ、僕の「視野に沢山のサムネイルを見た体験」はさらなる謎を生み出しただけで、この現象を分析し続ける事に生産性はあまり無いように思える。

ただ、「我々の体験している世界は仮想現実である」という仮説と辻褄が合う事例をひとつ付け加えたとは言えるかも知れない。

なお、僕は基本的に科学的な思考をする人間であり、今日のブログの内容も「我々の体験している世界は仮想現実である」という仮説をサポートする事例をひとつ追加したのみである(つまり、この世は仮想現実という仮説はポパーの言うように証明することは出来ない。反証することが出来るのみである)。

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この世が仮想現実であるかも?という個人的体験(1)

僕は2012年4月にストレスから双極性障害(躁うつ病)の躁状態になった。

その時、色々と目の前の世界が歪んだ体験をしたのだが、今日はそのうちの1つを取り上げる。

それは、僕の妻が妙なアクセントの方言で話しはじめた事である。

普段、妻は標準語のアクセントで話しているのだが、僕の躁状態がはげしくなったある日、妻が聞いたこともないアクセントの方言(東北弁に少し似ている)で話し始めた。そして、標準語アクセントに戻ったり、また妙なアクセントになったりしたのである。

この時、妻の世界では普通に標準語アクセントで話し続けていた。しかし、僕の世界ではそれが妙なアクセントに聞こえたのだ。

では、どちらの世界が客観的に見て正しい世界なのだろうか?

恐らく、妻の世界(標準語アクセントで話している世界)が正しい世界で、僕の世界(妻が妙なアクセントで話している世界)はニセの世界であるというのが正しい世界解釈であると考えられるだろう。

この時の僕の脳はひどく狂っており、現実を客観的に捉えることが出来なくなってしまっていたと解釈するわけである。

そうした妄想の中で僕は妻が妙なアクセントで話しているように捉えてしまったのではないか、というのが現時点の科学では正しい認識と考えられるだろう。

しかし、狂った脳が見た僕の世界(妻が妙なアクセントで話している世界)は、存在しない世界なのだろうか?もし、本当に存在しなければ、僕にはどうして妙なアクセントに聞こえてしまったのだろう?

なお、僕はこの躁状態の中で色々な人の会話を聞いたのだが、妙なアクセントの方言で話すのは妻だけで、後の人は普通のアクセントで話していたのである(この中には関西弁で話す関西人も居たのだが)。

ここで新たな発想として、「パラレルワールド」あるいは「仮想現実」を持ち出すことが出来るのである。

この発想で考える場合、妻の世界(標準語アクセントで話している世界)と僕の世界(妻が妙なアクセントで話している世界)は並行して生じており、どちらの世界も存在することになる。

この場合は、僕には妙なアクセントに聞こえてしまったのが「それもひとつの現実だから」という解釈になり、矛盾は生じない。

ただ、このような極端な事態(僕と妻が別の世界を見ている)は滅多に生じることがなく、通常は僕と妻は共通の世界を見ているのだろう。

このように、精神病が作り出す世界はひとつの「仮想現実」あるいは「パラレルワールド」と捉えると、これまで謎だった現象(幻覚、幻聴など)を説明することが可能になる。

もっとも、この「精神病パラレルワールド説」はあくまでも仮説であり、今後、科学が進めば否定されるかも知れないことはお断りしておきたい。

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三菱重工も原子力事業で危機に立っている

http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-14.html において、東芝が原子力事業を巡って経営危機に陥っていることを書いた。

それと同様に目下、三菱重工も原子力事業を巡って危機に立っているようだ(但し、東芝のように会社全体が潰れかねない規模ではない)。

東芝は子会社である米ウェスチングハウス社のAP1000という新型原子炉の建設が上手く行かずに大赤字を出した、という分かりやすい話だったのだが、三菱重工の場合は話が少し複雑である。

三菱重工は仏アレバ社と合弁会社「ATMEA社」を設立し、「ATMEA 1」という新型原子炉の開発をして来た。

この新型原子炉ATMEA 1は炉心溶解対策に加え、大型航空機が衝突しても耐えられるように設計されており、さらに地震対策も施されている。

しかし、そのATMEA 1が売れないのである。

まず、ほぼ受注にまで至っていたベトナムの原発建設計画が白紙撤回された。

他に、トルコにも売り込もうとしていたのだが、そちらも採算難ということでATMEA 1は目下、受注ゼロなのである。

それだけならばまだ傷は浅いのだが、三菱重工は経営難に陥っているアレバ社の救済に巨額の出資をしているのである。

福島原発事故は世界の原子力業界に大きな影響を与えてしまい、フランスでもアレバ社が経営難になったのだが、日本政府とフランス政府の原子力分野における協力に関するハイレベル対話が行われた。

そのハイレベル対話の結果を受け、三菱重工はアレバグループが設立する新会社「NewCo」に約2億5,000万ユーロ出資することで大枠合意した(2017年3月)。

さらに、4月になると、新たに設立するアレバの原子炉子会社「アレバNP」に三菱重工が約400億円を出資すると報じられた。

ということで、三菱重工は総額700億円をアレバに出資したことになる。

日経新聞は「三菱重工、仏アレバに苦渋の出資 原子力から引くに引けず」というタイトルの記事でこの出資を「先の見えない原子力事業への投資としては異例ともいえる規模だ」と書いた。そして、「社内の根強い懸念の声を振り切り、三菱重がこれにほぼ満額回答で応えたのは『20年、30年後にもう一度、原子力ルネサンスが来る』(関係者)可能性に賭けるから」と結論している。

さて、この三菱重工の賭けは当たるのだろうか?僕の予想では20年、30年後に来る原子力ルネサンスは、超高温ガス炉やトリウム溶融塩原子炉に移行していると考えるのだが、どうだろうか?

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神を信じる科学者の頭の中はどうなっているのか?

僕は長い間、神を信じていなかった。

それは科学的な世界観を持っていたためである。

僕の場合、たまたま一種の神秘体験をして神の存在を信じるようになったのだが、もしそうした体験がなければ今でも神を信じていなかっただろう。

しかし、そのような僕でも科学的な世界観と神秘体験で得られた世界観が頭の中で衝突しており、その2つの世界観をどう接続するかで今でも苦しんでいる。僕がブログを書く原動力もここにあるのである。

一方、世の中には神を信じる科学者も結構居る。

有名なのはアインシュタインで、彼は「宗教のない科学はかたわ、科学のない宗教は盲目」と例えた。彼は科学、宗教、芸術など様々な活動を動機付けているのは、崇高さの神秘に対する驚きだとしていたのである。

確かに、西ヨーロッパで科学が発達したのは、キリスト教に原因があるとされている。

しかし、科学が進展し、素粒子物理学や分子遺伝学まで辿りついた結果、科学者は次第に神への信仰を放棄し始め、唯物論的世界観が優勢になってしまったのである。

そうした唯物論的世界観を持つ者が多数派にある中で、どうして神を信じる科学者が生き残っているのだろうか?彼らの頭の中では一体どうやって科学と宗教が共存しているのだろうか?

神秘体験をした僕でさえ、科学と宗教が頭の中で衝突しているのに、神秘体験なしに神を信じる科学者は頭がどうかしているのではないかと思わざると得ないのである(一種の精神分裂か、多重人格状態なのか?)。

あるいは、彼らは幼少時より親から信仰を刷り込まれたから神を信じているのではないか、とも考えられる(アメリカ人はこのケースが多いようだ。他方、ヨーロッパ人は無神論者が多いように思われる)。

僕の考えでは、神の存在が最新の科学と矛盾しないことを示すことに、「科学と宗教の調和」の解決策を求めざるを得ないと考えている。

例えば、量子力学の理論がミクロだけではなくマクロなスケールでも成り立つ事が分かれば、現代人の世界観は随分と変わるだろう(もっとも、神と量子力学の関係は現在では不明であるが)。

とにかく、現代は「神の死んだ」世界なのである。それはそれで構わないと思う人もあるかも知れないが、そうした「神の死んだ」世界は不幸な世界なのである。物質的に貧しかった中世に生きていた人々よりも、現代人は不幸であると僕は考えている。

そして、その不幸を作り出してしまったのが科学なのである(その科学の原動力が西欧のキリスト教にあるというのが何とも皮肉であるが)。

科学者はこの問題(自分達の成果が世界を不幸にしてしてしまったこと)をどこかで清算しなければならない、と僕は考えている。アインシュタインが言うように、「宗教のない科学はかたわ」なのである。

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マスメディアはなぜ人が殺し合う番組をつくるのか

刑事ドラマや時代劇において顕著な傾向であるが、なぜか視聴者は人が死んだり、殺し合いをするのを娯楽として楽しんで視る。

普通の感覚では、身近で人が死ねば「不幸」でしかないのだが、なぜかテレビや映画では人が死ぬのを皆、娯楽にしているのである。

NHKのような公共放送でも人が死ぬのを娯楽にしている、というのは客観的に見ると尋常ではない。

なぜ人間は人が死んだり殺し合いをするのを見るのが好きなのだろうか?

エックハルト・トールによれば、人はそういう映画を見て嫌な気分になりたいからだという。人間は嫌な気分になるのが好きで、それが良いと思うのだそうである。エックハルト・トールは、それを「ペインボディ」という概念を用いて説明する。

ペインボディとは、抑圧された古い負の感情の集積で、かつ今も生き生きと息づいている感情のエネルギー場を指す、エックハルト・トールの造語である。

このペインボディは非個人的な性格もあわせて持っており、延々と続く部族間闘争や奴隷制、略奪、強姦、拷問その他の暴力に彩られた人類の歴史を通じて、数えきれない人々が体験してきた痛みもそこには含まれている。

この痛みは今も人類の集団的真理のなかで生きていて、日々積み重ねられているという。

他方、動物行動学や人類学の研究を通して分かってきたことは、動物の同種間の殺害はありふれたものだということだ(かつては、同種間の殺害は人間に特有のものであると考えられていたらしい)。

そして、霊長類の社会性は、この同種間の殺害を避けるために発展して来たという説もある。

いずれにせよ、どうも本能的に人間は他人への殺意を持つことがあり、人間社会にはそれを避けるメカニズムと促進するメカニズムが同居しているようだ。

このあたりに、人が死んだり殺し合ったりすることを娯楽として視聴する原因があるのではないだろうか。

こうした娯楽は遠い将来に人類がもっと発展した社会を持った時にも存在するのだろうか?そろそろ我々は殺し合いを娯楽にすることを止めなければならない、と僕は思うのだが、いかがだろうか。

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原子力発電は必要か

「原子力発電は必要か?」この問題はジャーナリズムの世界でも研究の世界でも極端に意見の分かれる問題である。これは福島原発事故が起こった後もあまり変わっていない。

例えば、NHKの解説記事「視点・論点 原発再稼働 必要性を考える(1)澤昭裕氏 (2)吉岡斉氏」の議論は、同じシリーズの記事であるにも関わらず結論が反対である。

澤昭裕氏は(1) 電気の安定供給を万全にすること(何かの電源が使えなくなくなっても、他の電源を使って何とか問題を表面化するのを防ぐというやり方はそろそろ限界。火力発電所は老朽化が進んでおり、また天然ガスや石油は輸入が不安定) (2) 二酸化炭素の排出を抑えること (3) 経済面への悪影響を取り除くこと(原発停止中に天然ガスや石油などの輸入が増加し、年間3~4兆円が輸入代金として国外に流れ出た。その結果、電気料金が上昇し、国内の消費に回るはずだった我々のお金は国外に流出し、このままではアベノミクスも失敗に終わるだろう) という3点から、原発再稼働は必要であるという。

他方、吉岡斉氏は、原子力発電は他の発電方式と比べてエネルギー安定供給、環境保全、経済性の観点から見て劣った技術であると主張する。エネルギー安定供給については、福島原発事故以降、多数の原子炉が一度にダウンし運転再開に長期間を要したことを見るように、最も安定供給性が劣るという。また環境保全性については有害化学物質や二酸化炭素排出が少ない一方で、事故による放射線・放射能の環境への大量放出のリスクをかかえ、また放射性廃棄物を生み出すという。経済性についても、使用済み核燃料を取り出してから最終処分するまでの費用が法外な金額となる恐れがあるという(更に、福島原発事故での損害額は現時点で11兆円、将来分も合わせれば数十兆円になるという)。

人間は誰でも主観で生きている。完全に客観的にはなれないから、ある問題について異なる意見が出るのは当たり前なのだが、原発問題ほど意見が分かれる題材は珍しい。エネルギー問題はイデオロギーとは異なるから、これほど意見が分かれる理由はないのであるが・・。

ちなみに、欧米諸国を見れば、ドイツ・イタリア・スイスでは原発全廃の路線、アメリカ・イギリスは慎重ではあるがやや原発推進路線、フランス・ロシア・東ヨーロッパでは原発推進の路線と国により路線が分かれている。中でもフランスは全発電量の約8割を原発に依存している。

日本において今後、原発推進路線が取られるかというと、それは難しいと僕は考える。それは日本が地震国という固有事情があるからである。福島原発事故ではたまたま季節風に乗って放射性物質が海上に拡散して行ったことが幸運だったが、もしあれが夏季に起こり海風に乗って陸上に拡散していれば、人の住めない地域がもっと広がっていただろう。したがって、廃炉に伴う新型炉へのリプレースはあっても、新設は政治的に難しいのではないかと考えている。

ただ、中国・インドなどの新興国では原子力発電所は増えていくだろう。

なお、IPCCの第5次評価報告書では2010~2029年までの原子力による二酸化炭素低減はさほど大きくなく、自然エネルギー、CCS(CO2回収・貯留)、省エネルギーの効果が原子力よりも大きくなっている(IPCC第5次評価報告書WG3のFigure SPM.9を参照)。

ということで、原発賛成・反対を巡っていくら騒いでも日本では「コップの中の嵐」であり、中期的には原発は現状維持、長期的には新エネルギーへの転換になって行くだろうと予想している。

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宗教と科学は共存しうるか

バハイ教は「科学と宗教の調和」を教義としている。

しかし、科学と宗教(スピリチュアリズムも含む)は果たして矛盾せずに共存出来るのだろうか?

例えば、西洋では古来より「創造説」が真理と考えられて来たが、今では進化論にとって代わられ、宗教が支配する範囲は狭まっている。

今後、科学が更に進歩すると、宗教の支配領域はもっともっと狭まって行き、最終的には科学が全てを説明することになりはしないか?と予想することも可能である。

この問題は、科学哲学からある程度考えることが出来る。

現在、科学哲学(科学の方法論)を巡っては複数の思想が対立しているが、その中で多くに支持されているのがポパーの反証主義である。

ポパーは、「科学理論は実験によって反証出来なければならない」と考えた。ポパーは、人間が観察によって科学理論の正当性を証明することは原理的に不可能であり、観察によってできることは、ある理論を反証することだけである、と主張している。

このポパーの考えを適用すると、「反証可能性を持つ命題」が科学的命題であり、反証可能性を持たない命題は科学では手におえないということになる。そして、一回でも反証されれば、その命題は間違いということになる。

スピリチュアリズムに関する命題で言うと、科学者は長年「死後に意識はない(意識は脳が作り出す)」と考えて来たが、http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-5.html で紹介したパム・レイノルズの臨死体験は、脳波がフラットな状態(脳死状態)において体外に意識があったことから、意識は脳が作り出すとは言えない、という反証がなされた。

したがって、今、我々は「意識は脳が作り出す」に代わる科学理論(反証可能性を持つ理論)を造らねばならない、ということになる。

しかし、生物の持つ意識の問題についての科学の発展は進歩のスピードが遅いようだ。意識の問題の究極的な探究は神の存在問題(意識と神の関係の問題)になると考えられるが、それが科学の対象になる時代は果たして訪れるのだろうか?

あるいは、意識の問題や神の問題は科学の対象にはなり得ないのか?

神の問題が科学の対象にならないとすれば、どこかに宗教と科学を分け隔てる境界が存在するということになるが、その境界はどこになるのだろうか?

この問題については、僕がインターネットで検索した限りでは、まだ未発展の領域のようだ(「心または意識に関する量子力学的アプローチ」 https://ja.wikipedia.org/wiki/量子脳理論 というのがあるにはあるが)。

神の存在を信じる科学者は多いし(アインシュタインなどが有名)、僕個人の経験でもどうやら神は存在するらしいと考えているのだが、それを立証する手段が無いというのは、もどかしいものである。

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