とあるバハイ教徒の日記:第二支部

神の存在証明と地球温暖化防止

この世が仮想現実であるかも?という個人的体験(1)

僕は2012年4月にストレスから双極性障害(躁うつ病)の躁状態になった。

その時、色々と目の前の世界が歪んだ体験をしたのだが、今日はそのうちの1つを取り上げる。

それは、僕の妻が妙なアクセントの方言で話しはじめた事である。

普段、妻は標準語のアクセントで話しているのだが、僕の躁状態がはげしくなったある日、妻が聞いたこともないアクセントの方言(東北弁に少し似ている)で話し始めた。そして、標準語アクセントに戻ったり、また妙なアクセントになったりしたのである。

この時、妻の世界では普通に標準語アクセントで話し続けていた。しかし、僕の世界ではそれが妙なアクセントに聞こえたのだ。

では、どちらの世界が客観的に見て正しい世界なのだろうか?

恐らく、妻の世界(標準語アクセントで話している世界)が正しい世界で、僕の世界(妻が妙なアクセントで話している世界)はニセの世界であるというのが正しい世界解釈であると考えられるだろう。

この時の僕の脳はひどく狂っており、現実を客観的に捉えることが出来なくなってしまっていたと解釈するわけである。

そうした妄想の中で僕は妻が妙なアクセントで話しているように捉えてしまったのではないか、というのが現時点の科学では正しい認識と考えられるだろう。

しかし、狂った脳が見た僕の世界(妻が妙なアクセントで話している世界)は、存在しない世界なのだろうか?もし、本当に存在しなければ、僕にはどうして妙なアクセントに聞こえてしまったのだろう?

なお、僕はこの躁状態の中で色々な人の会話を聞いたのだが、妙なアクセントの方言で話すのは妻だけで、後の人は普通のアクセントで話していたのである(この中には関西弁で話す関西人も居たのだが)。

ここで新たな発想として、「パラレルワールド」あるいは「仮想現実」を持ち出すことが出来るのである。

この発想で考える場合、妻の世界(標準語アクセントで話している世界)と僕の世界(妻が妙なアクセントで話している世界)は並行して生じており、どちらの世界も存在することになる。

この場合は、僕には妙なアクセントに聞こえてしまったのが「それもひとつの現実だから」という解釈になり、矛盾は生じない。

ただ、このような極端な事態(僕と妻が別の世界を見ている)は滅多に生じることがなく、通常は僕と妻は共通の世界を見ているのだろう。

このように、精神病が作り出す世界はひとつの「仮想現実」あるいは「パラレルワールド」と捉えると、これまで謎だった現象(幻覚、幻聴など)を説明することが可能になる。

もっとも、この「精神病パラレルワールド説」はあくまでも仮説であり、今後、科学が進めば否定されるかも知れないことはお断りしておきたい。

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三菱重工も原子力事業で危機に立っている

http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-14.html において、東芝が原子力事業を巡って経営危機に陥っていることを書いた。

それと同様に目下、三菱重工も原子力事業を巡って危機に立っているようだ(但し、東芝のように会社全体が潰れかねない規模ではない)。

東芝は子会社である米ウェスチングハウス社のAP1000という新型原子炉の建設が上手く行かずに大赤字を出した、という分かりやすい話だったのだが、三菱重工の場合は話が少し複雑である。

三菱重工は仏アレバ社と合弁会社「ATMEA社」を設立し、「ATMEA 1」という新型原子炉の開発をして来た。

この新型原子炉ATMEA 1は炉心溶解対策に加え、大型航空機が衝突しても耐えられるように設計されており、さらに地震対策も施されている。

しかし、そのATMEA 1が売れないのである。

まず、ほぼ受注にまで至っていたベトナムの原発建設計画が白紙撤回された。

他に、トルコにも売り込もうとしていたのだが、そちらも採算難ということでATMEA 1は目下、受注ゼロなのである。

それだけならばまだ傷は浅いのだが、三菱重工は経営難に陥っているアレバ社の救済に巨額の出資をしているのである。

福島原発事故は世界の原子力業界に大きな影響を与えてしまい、フランスでもアレバ社が経営難になったのだが、日本政府とフランス政府の原子力分野における協力に関するハイレベル対話が行われた。

そのハイレベル対話の結果を受け、三菱重工はアレバグループが設立する新会社「NewCo」に約2億5,000万ユーロ出資することで大枠合意した(2017年3月)。

さらに、4月になると、新たに設立するアレバの原子炉子会社「アレバNP」に三菱重工が約400億円を出資すると報じられた。

ということで、三菱重工は総額700億円をアレバに出資したことになる。

日経新聞は「三菱重工、仏アレバに苦渋の出資 原子力から引くに引けず」というタイトルの記事でこの出資を「先の見えない原子力事業への投資としては異例ともいえる規模だ」と書いた。そして、「社内の根強い懸念の声を振り切り、三菱重がこれにほぼ満額回答で応えたのは『20年、30年後にもう一度、原子力ルネサンスが来る』(関係者)可能性に賭けるから」と結論している。

さて、この三菱重工の賭けは当たるのだろうか?僕の予想では20年、30年後に来る原子力ルネサンスは、超高温ガス炉やトリウム溶融塩原子炉に移行していると考えるのだが、どうだろうか?

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神を信じる科学者の頭の中はどうなっているのか?

僕は長い間、神を信じていなかった。

それは科学的な世界観を持っていたためである。

僕の場合、たまたま一種の神秘体験をして神の存在を信じるようになったのだが、もしそうした体験がなければ今でも神を信じていなかっただろう。

しかし、そのような僕でも科学的な世界観と神秘体験で得られた世界観が頭の中で衝突しており、その2つの世界観をどう接続するかで今でも苦しんでいる。僕がブログを書く原動力もここにあるのである。

一方、世の中には神を信じる科学者も結構居る。

有名なのはアインシュタインで、彼は「宗教のない科学はかたわ、科学のない宗教は盲目」と例えた。彼は科学、宗教、芸術など様々な活動を動機付けているのは、崇高さの神秘に対する驚きだとしていたのである。

確かに、西ヨーロッパで科学が発達したのは、キリスト教に原因があるとされている。

しかし、科学が進展し、素粒子物理学や分子遺伝学まで辿りついた結果、科学者は次第に神への信仰を放棄し始め、唯物論的世界観が優勢になってしまったのである。

そうした唯物論的世界観を持つ者が多数派にある中で、どうして神を信じる科学者が生き残っているのだろうか?彼らの頭の中では一体どうやって科学と宗教が共存しているのだろうか?

神秘体験をした僕でさえ、科学と宗教が頭の中で衝突しているのに、神秘体験なしに神を信じる科学者は頭がどうかしているのではないかと思わざると得ないのである(一種の精神分裂か、多重人格状態なのか?)。

あるいは、彼らは幼少時より親から信仰を刷り込まれたから神を信じているのではないか、とも考えられる(アメリカ人はこのケースが多いようだ。他方、ヨーロッパ人は無神論者が多いように思われる)。

僕の考えでは、神の存在が最新の科学と矛盾しないことを示すことに、「科学と宗教の調和」の解決策を求めざるを得ないと考えている。

例えば、量子力学の理論がミクロだけではなくマクロなスケールでも成り立つ事が分かれば、現代人の世界観は随分と変わるだろう(もっとも、神と量子力学の関係は現在では不明であるが)。

とにかく、現代は「神の死んだ」世界なのである。それはそれで構わないと思う人もあるかも知れないが、そうした「神の死んだ」世界は不幸な世界なのである。物質的に貧しかった中世に生きていた人々よりも、現代人は不幸であると僕は考えている。

そして、その不幸を作り出してしまったのが科学なのである(その科学の原動力が西欧のキリスト教にあるというのが何とも皮肉であるが)。

科学者はこの問題(自分達の成果が世界を不幸にしてしてしまったこと)をどこかで清算しなければならない、と僕は考えている。アインシュタインが言うように、「宗教のない科学はかたわ」なのである。

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マスメディアはなぜ人が殺し合う番組をつくるのか

刑事ドラマや時代劇において顕著な傾向であるが、なぜか視聴者は人が死んだり、殺し合いをするのを娯楽として楽しんで視る。

普通の感覚では、身近で人が死ねば「不幸」でしかないのだが、なぜかテレビや映画では人が死ぬのを皆、娯楽にしているのである。

NHKのような公共放送でも人が死ぬのを娯楽にしている、というのは客観的に見ると尋常ではない。

なぜ人間は人が死んだり殺し合いをするのを見るのが好きなのだろうか?

エックハルト・トールによれば、人はそういう映画を見て嫌な気分になりたいからだという。人間は嫌な気分になるのが好きで、それが良いと思うのだそうである。エックハルト・トールは、それを「ペインボディ」という概念を用いて説明する。

ペインボディとは、抑圧された古い負の感情の集積で、かつ今も生き生きと息づいている感情のエネルギー場を指す、エックハルト・トールの造語である。

このペインボディは非個人的な性格もあわせて持っており、延々と続く部族間闘争や奴隷制、略奪、強姦、拷問その他の暴力に彩られた人類の歴史を通じて、数えきれない人々が体験してきた痛みもそこには含まれている。

この痛みは今も人類の集団的真理のなかで生きていて、日々積み重ねられているという。

他方、動物行動学や人類学の研究を通して分かってきたことは、動物の同種間の殺害はありふれたものだということだ(かつては、同種間の殺害は人間に特有のものであると考えられていたらしい)。

そして、霊長類の社会性は、この同種間の殺害を避けるために発展して来たという説もある。

いずれにせよ、どうも本能的に人間は他人への殺意を持つことがあり、人間社会にはそれを避けるメカニズムと促進するメカニズムが同居しているようだ。

このあたりに、人が死んだり殺し合ったりすることを娯楽として視聴する原因があるのではないだろうか。

こうした娯楽は遠い将来に人類がもっと発展した社会を持った時にも存在するのだろうか?そろそろ我々は殺し合いを娯楽にすることを止めなければならない、と僕は思うのだが、いかがだろうか。

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原子力発電は必要か

「原子力発電は必要か?」この問題はジャーナリズムの世界でも研究の世界でも極端に意見の分かれる問題である。これは福島原発事故が起こった後もあまり変わっていない。

例えば、NHKの解説記事「視点・論点 原発再稼働 必要性を考える(1)澤昭裕氏 (2)吉岡斉氏」の議論は、同じシリーズの記事であるにも関わらず結論が反対である。

澤昭裕氏は(1) 電気の安定供給を万全にすること(何かの電源が使えなくなくなっても、他の電源を使って何とか問題を表面化するのを防ぐというやり方はそろそろ限界。火力発電所は老朽化が進んでおり、また天然ガスや石油は輸入が不安定) (2) 二酸化炭素の排出を抑えること (3) 経済面への悪影響を取り除くこと(原発停止中に天然ガスや石油などの輸入が増加し、年間3~4兆円が輸入代金として国外に流れ出た。その結果、電気料金が上昇し、国内の消費に回るはずだった我々のお金は国外に流出し、このままではアベノミクスも失敗に終わるだろう) という3点から、原発再稼働は必要であるという。

他方、吉岡斉氏は、原子力発電は他の発電方式と比べてエネルギー安定供給、環境保全、経済性の観点から見て劣った技術であると主張する。エネルギー安定供給については、福島原発事故以降、多数の原子炉が一度にダウンし運転再開に長期間を要したことを見るように、最も安定供給性が劣るという。また環境保全性については有害化学物質や二酸化炭素排出が少ない一方で、事故による放射線・放射能の環境への大量放出のリスクをかかえ、また放射性廃棄物を生み出すという。経済性についても、使用済み核燃料を取り出してから最終処分するまでの費用が法外な金額となる恐れがあるという(更に、福島原発事故での損害額は現時点で11兆円、将来分も合わせれば数十兆円になるという)。

人間は誰でも主観で生きている。完全に客観的にはなれないから、ある問題について異なる意見が出るのは当たり前なのだが、原発問題ほど意見が分かれる題材は珍しい。エネルギー問題はイデオロギーとは異なるから、これほど意見が分かれる理由はないのであるが・・。

ちなみに、欧米諸国を見れば、ドイツ・イタリア・スイスでは原発全廃の路線、アメリカ・イギリスは慎重ではあるがやや原発推進路線、フランス・ロシア・東ヨーロッパでは原発推進の路線と国により路線が分かれている。中でもフランスは全発電量の約8割を原発に依存している。

日本において今後、原発推進路線が取られるかというと、それは難しいと僕は考える。それは日本が地震国という固有事情があるからである。福島原発事故ではたまたま季節風に乗って放射性物質が海上に拡散して行ったことが幸運だったが、もしあれが夏季に起こり海風に乗って陸上に拡散していれば、人の住めない地域がもっと広がっていただろう。したがって、廃炉に伴う新型炉へのリプレースはあっても、新設は政治的に難しいのではないかと考えている。

ただ、中国・インドなどの新興国では原子力発電所は増えていくだろう。

なお、IPCCの第5次評価報告書では2010~2029年までの原子力による二酸化炭素低減はさほど大きくなく、自然エネルギー、CCS(CO2回収・貯留)、省エネルギーの効果が原子力よりも大きくなっている(IPCC第5次評価報告書WG3のFigure SPM.9を参照)。

ということで、原発賛成・反対を巡っていくら騒いでも日本では「コップの中の嵐」であり、中期的には原発は現状維持、長期的には新エネルギーへの転換になって行くだろうと予想している。

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宗教と科学は共存しうるか

バハイ教は「科学と宗教の調和」を教義としている。

しかし、科学と宗教(スピリチュアリズムも含む)は果たして矛盾せずに共存出来るのだろうか?

例えば、西洋では古来より「創造説」が真理と考えられて来たが、今では進化論にとって代わられ、宗教が支配する範囲は狭まっている。

今後、科学が更に進歩すると、宗教の支配領域はもっともっと狭まって行き、最終的には科学が全てを説明することになりはしないか?と予想することも可能である。

この問題は、科学哲学からある程度考えることが出来る。

現在、科学哲学(科学の方法論)を巡っては複数の思想が対立しているが、その中で多くに支持されているのがポパーの反証主義である。

ポパーは、「科学理論は実験によって反証出来なければならない」と考えた。ポパーは、人間が観察によって科学理論の正当性を証明することは原理的に不可能であり、観察によってできることは、ある理論を反証することだけである、と主張している。

このポパーの考えを適用すると、「反証可能性を持つ命題」が科学的命題であり、反証可能性を持たない命題は科学では手におえないということになる。そして、一回でも反証されれば、その命題は間違いということになる。

スピリチュアリズムに関する命題で言うと、科学者は長年「死後に意識はない(意識は脳が作り出す)」と考えて来たが、http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-5.html で紹介したパム・レイノルズの臨死体験は、脳波がフラットな状態(脳死状態)において体外に意識があったことから、意識は脳が作り出すとは言えない、という反証がなされた。

したがって、今、我々は「意識は脳が作り出す」に代わる科学理論(反証可能性を持つ理論)を造らねばならない、ということになる。

しかし、生物の持つ意識の問題についての科学の発展は進歩のスピードが遅いようだ。意識の問題の究極的な探究は神の存在問題(意識と神の関係の問題)になると考えられるが、それが科学の対象になる時代は果たして訪れるのだろうか?

あるいは、意識の問題や神の問題は科学の対象にはなり得ないのか?

神の問題が科学の対象にならないとすれば、どこかに宗教と科学を分け隔てる境界が存在するということになるが、その境界はどこになるのだろうか?

この問題については、僕がインターネットで検索した限りでは、まだ未発展の領域のようだ(「心または意識に関する量子力学的アプローチ」 https://ja.wikipedia.org/wiki/量子脳理論 というのがあるにはあるが)。

神の存在を信じる科学者は多いし(アインシュタインなどが有名)、僕個人の経験でもどうやら神は存在するらしいと考えているのだが、それを立証する手段が無いというのは、もどかしいものである。

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環境倫理学と地球温暖化防止

地球温暖化防止は、人類社会が将来的にも持続出来るようにすることを目的としている。これは一種のコンセンサスと言って良いだろう。

他方で、地球温暖化防止を倫理学的な観点から捉えることも可能である。

本日は「環境倫理学」の立場から見ることにより、現在の地球温暖化防止への取り組みにどういう問題があるかを考えることにする。

アラン・マーシャルによると、過去40年の間、環境倫理学には以下の3つの考え方があるとする(以下、https://ja.wikipedia.org/wiki/環境倫理学 に基づいて説明)。

(1) 自然の生存権:人間だけでなく自然も生存の権利を持つ、人間は自然の生存を守る義務を持つ、といった考え方。「自然と人間の共生」という考え方にまとめることもできる。

(2) 世代間倫理::現在を生きている世代は、未来を生きる世代の生存可能性に対して責任があるという考え方。

(3) 地球有限主義:他の目的よりも有限な地球環境を守ることを優先する、生態系や地球資源を軸に物事を考える、といった考え方。

まず(1)の自然の生存権については、地球温暖化防止(パリ協定の2℃目標)でも生物種のある程度の絶滅は避けられないと考えられる。このため、パリ協定は自然の生存権はある程度考慮しているものの、完全には考慮していないと僕は考えている(完全に考慮するなら、1℃目標くらいにせねばならず、それは経済成長の否定に繋がる)。

(2)の世代間倫理については、パリ協定の2℃目標では温暖化による被害額という点ではある程度の世代間公平を考慮していると考えられるものの、温暖化対策費用(省エネルギー、新エネルギー開発費用)としてはかなりの費用を将来世代へのツケとして支払わせているのではないかという疑問が生じる。現在実施されているような生ぬるい温暖化対策では、将来世代の負担は避けられないのである。

(3)の地球有限主義については、「他の目的よりも有限な地球環境を守ることを優先」の「他の目的」が快適な生活、経済的利益、健康、幸福など、人類にとっての利益を意味していることから、現在の地球環境政策がそれらの他の目的よりも地球環境の保全を優先しているとは考えにくいのである(特に、経済成長至上主義という価値観から現在の社会は抜け出せない)。

このように、人類社会が将来的にも持続出来るようにすることが、現在の地球社会のコンセンサスであるとは言っても、それは経済成長を前提としたコンセンサスであり、環境倫理学の立場に立ったコンセンサスではないと結論出来る。

このため、パリ協定の2℃目標については、経済学者の間では懐疑的な意見が多い。2℃目標はCO2濃度では450ppm程度であるが、経済学者には550ppm程度の方が経済成長と地球環境保全のバランスが取れると考えている人が多いのである(あるいは、http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-46.html で紹介したオーバーシュートシナリオが良いと考える人も結構居る)。

要するに、環境倫理学と現行の地球環境政策(特に経済学者の提唱する政策)の間には「バカの壁」のような問題が立ちはだかっているのである。両者は非常に互いを認め合うことが難しい。

という事で、希望が見えるのは、新エネルギーの開発なのであるが、それだけでは地球温暖化防止の達成が難しいのはこれまでに書いて来た通りである(例えば、http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-35.html を参照)。

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悟りの科学

バハイ教に「悟り」という概念はない。

しかし、バハイ教ではヒンズー教や仏教の創始者も神の啓示者と教えられており、瞑想についても推奨されている。

このため、悟りの概念はバハイ教と全く無縁ではないと言える。

悟りというのは、脳がある状態になった時の意識状態を表した概念であると考えられるが、まだ科学的に明らかにはなっていないようだ。

インターネット上の情報を探した限りでは、悟りには概ね2種類の仮説がある。

ひとつは左脳の思考が止まって、右脳だけでものごとを認識している状態を悟りの状態とする考えである。左脳は言語を使って考えるので、言語による思考を止めてしまえば右脳だけが働いた状態になり、悟りの状態が訪れるという理屈である。

エックハルト・トールのいう悟りはこの「言語による思考を止める方法」であり、彼は「思考は観察すれば止まる」という。だから、ただ思考を観察することを続けるだけで悟りの状態が得られるというのである。

しかし、この「思考を止める」のは容易ではない。僕が試した限りでは、1分間は思考を止めることが出来ても、5分、10分になると相当に難しく、ついつい雑念が湧いてしまう。

もし、そんな簡単に悟りを得ることが出来るなら、今でも世界のかなりの人口の人が悟りを得て、地球温暖化も防止出来るのではないだろうか。左脳の思考を完全に止めるのは難しいのである。

もうひとつの悟りの理論(仮説)として、脳波がガンマ波(40ヘルツ)になった状態で悟りが訪れるというものがある。このガンマ波は瞑想中に生じる、非常に鋭敏で悟りに近い状態のときだけに見られる脳波である。ブッダはこのガンマ派が出ている意識状態のことを「サマ・サーディ(真の瞑想)」と呼んでいた、とされる。

脳波をガンマ波(40ヘルツ)にすることは、バイノーラルビート(両耳性うなり)を用いれば実現可能かも知れない。僕は睡眠薬の代わりにバイノーラルビートを用いて寝ており、この技術で脳波をコントロールが可能なことは実証済みである。

なお、僕は今まで、瞑想中は通常アルファ波(8~12ヘルツ)になるので、脳波は周波数が低めの方が悟りを導きやすいと考えていたのだが、これはどうやら逆のようである。周波数は低い方が脳がリラックスして悟りをもたらすと考えていたのだが・・。

上記の2種類の悟りの理論は互いに矛盾しているように思われる。左脳の活動停止と、脳波の周波数が高くなる事は、相反する事象に思えるのである。したがって、どちらかの仮説が間違っていると思われる(あるいは両者を包括する理論が存在するのかも知れないが)。

いずれにせよ、悟りはまだ科学的には解明されていないようだ。今後もし、悟りが科学的に明らかになれば、多くの人が悟りを得られる可能性がある。そうなれば、人類社会は劇的に改善されると思うのだが、どうだろうか?

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経済学者の多くはパリ協定の2℃目標を達成困難と考えている

パリ協定は、2015年12月に採択された、地球温暖化防止を目的とした国際的枠組みである。

地球温暖化防止を目的とした国際的枠組みには過去には京都議定書(1997年に採択)があったが、京都議定書が主に先進国を中心とした枠組みであったのに対し、パリ協定は世界の196カ国・地域を対象国とした枠組みであることが大きく異なる。

パリ協定においては、産業革命前からの気温上昇を2℃未満に抑えることをめざし、「1.5℃未満」も努力目標とする数値目標が盛り込まれている。

ただし、京都議定書が国別のCO2削減義務を設定していたのに対し、パリ協定では削減目標は各国が目標値を自ら決定出来るようになっている。

ここでパリ協定には疑問が生じる。それは、各国が目標値を自ら決定するのでは、気温上昇を2℃未満に抑えることが出来るのかということである。

現在、世界の各国で最大の内政的な課題となっているのは、経済発展の問題である。CO2削減は主流派の経済学(新古典派の経済成長理論)で考える限り、経済発展を損ねる結果となる。

主流派の経済学でCO2削減が経済成長を損ねない条件は、CO2が発生しないエネルギーを用いることのみである(あるいは放出されたCO2を回収・貯蔵することや植林でCO2を固定すること。もちろんそれには費用もかかるが)。

このため、温暖化防止にはある程度、経済成長を犠牲にすることは避けられないと考えられている。温暖化防止が新産業を造り出し逆に経済成長を促進するという意見もあるが、それは少数派である。

そこで持ち出された考え方が、CO2を発生しない新エネルギーが発達するまでの間は経済的に無難なCO2削減を行い、新エネルギーが成熟してから大々的な削減(最終的にはCO2無排出あるいはマイナス排出)を行うという考え方である。ただし、グリーンランドの氷河が溶けたりすると海水面上昇が起こるので、新エネルギーが発達するまでの間もある程度の削減はすることが前提である。

この考え方は「オーバーシュートシナリオ」と呼ばれる。これは既に http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-7.html で紹介したが、もう一度掲載する。

(以下、引用 http://www.eic.or.jp/ecoterm/?act=view&serial=4337

地球温暖化による温度上昇を2℃以内に収めるためには大気中のCO2濃度を450ppm以下に留める必要がある。しかしながら、既に430ppm程度まで達している現実を踏まえ、一時的に450ppmを超えるが早急に、450ppm以下に落ち着かせるというシナリオである。一時的に450ppmを超えても100年程度の間の累積排出量が450ppm以下の場合と同様であれば、環境影響は450ppm以下に抑えた場合と同様となるという考え方に基づく。
 当面は、経済的に無難な削減策により、濃度は550ppmまで一時的にオーバーシュートするが、将来の大胆な温室効果ガス削減技術により、450ppm以下まで減らすというもので、いずれにしても大気中に一度放出されたCO2を回収し、大気中濃度を将来下げるというもの。多くのオーバーシュートシナリオでは、バイオマスCCSや広範な植林を想定しているが、実現可能性は低いとの指摘もある。(2015年7月作成)

(引用終わり)

上記の引用文ではオーバーシュートシナリオでも温度上昇2℃以内と同様になると書かれているが、実際に検討されているオーバーシュートシナリオ(例えば、http://www.cger.nies.go.jp/cgernews/201312/277004.html )では2.2℃くらいに上昇する期間が相当期間(2100年~2150年あたりまで)ある。

経済学者はGDP上昇を前提とした世界観を持っているから、パリ協定は一種の努力目標と考える傾向が強い。また、経済学者は国益の追求には熱心だが全体としての「地球益」の追求にはあまり熱心ではない。このため、経済学者の地球環境政策はどうしても消極的になりがちである。

したがって、パリ協定の2℃シナリオではなく、オーバーシュートシナリオが経済学者と自然科学者の間のぎりぎりの妥協点になるのである。但し、http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-3.html に書いた通り、今後20–30年以内に大幅なCO2をしなければ、地球生態系は壊滅的な打撃を被る可能性が高いという見解も重視する必要があり、オーバーシュートシナリオでも本当に地球が壊滅的な打撃を受けないかどうかは、更なる研究が必要になるだろう。

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僕はなぜ宗教を信じるようになったのか

僕はもともと無神論者で、宗教を「変なもの」と考えていた。

現代社会に生きる人々のかなりの部分が同じように考えているのではないかと僕は想像する。

僕の祖父はキリスト教の牧師だったが、なぜ彼が神などというものを信じているか、全く理解不能だった。

しかし、20歳代のある頃から僕はもしかすると宗教というものが重要ではないかと考え始めた。

なぜ宗教が重要かもしれないと考え始めたか、そのきっかけになった出来事は良く覚えていない。

ただ、何となく「人間が精神性を失わないようにすること」「人生を精神性向上の場と考える」ことが、人生において重要なことで、そのために何か”精神性向上の手段”が必要ではないか、と考え始めたのである。

もし、人間が精神性(スピリチュアリティー)を失えば、人間は頭の良いサルに過ぎなくなるのではないかと考えたのである。

生物は単細胞生物から進化を始め、中枢神経系を持ち始め、そのうち大脳が発達し始め、ついに精神性を獲得したのである。

これは宇宙の摂理であり、サルから人類への進化、そして人類社会の進化にも「精神性の向上」という大きな目的が潜んでいるのではないか、と僕は推測した。この精神性の向上の手段として、宗教というものの存在価値があるのではないか、と僕は推測したのである(もっとも、無宗教者でも精神性が高まればそれで良いし、宗教者でも精神性の向上がなければ宗教の意味はないと考えた)。

そして、僕が結婚した相手は偶然に「生長の家」という新興宗教の信者だった。しかし、僕は生長の家の組織活動にはのめりこむことは出来ず(教義には賛同したのだが)、「聖使命会員」になっただけだった。

ただ、この結婚をきっかけに僕は宗教を真面目に追求し始めた。詳細は省くが、その後、色々な事が起きて、最終的には「バハイ教」という宗教の信者になることになった。

しかし、それにも関わらず、僕は「神」というものを信じることが出来なかった。精神性の向上が人生の目的であるにしても、なぜ神などというものが存在しなければならないのか、僕には分からなかった。

そこに起こったのが2012年の双極性障害の発病である。それは躁状態だったのだが、僕はその時「神が存在する」事を肌身をもって実感した。そして、日記に「自分は神の存在証明が出来る」と書いた。しかし、それは思い上がりで、神の存在証明が出来ないばかりか、その後は「神が存在する」事を再び疑い出した(結局は、自分が体験した事は精神病の作り出した妄想かも知れない、と思った)。

しかし、2017年におきた軽躁状態において、これは間違いなく神というものが存在するという確信を得た。その詳細は http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-24.html に書いたが、僕は頭の中で人間には出来ないような思考をしてしまったのである。このような思考は神にしか出来ない、だから神は存在すると僕は結論付けたわけである。

このように、僕は段階を踏んで無宗教から精神性向上の手段としての宗教へ、そして神の直接体験へと進んできた。この先、僕がさらなる神体験をするのか、後は体験ではなく自分の頭脳だけで考えていくのか、僕には分からない。

僕が知りたいのは、他にも同様の体験をした人がいるかどうかである。そして知識をシェア出来れば、神に対する理解が深まるのではないかと思っている。

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