とあるバハイ教徒の日記:第二支部

神の存在証明と地球温暖化防止

日本語は一人称代名詞と助動詞の使い方で自我のあり方が違ってくる

このブログではこれまで、一人称代名詞には「僕」、助動詞には「だ体」「である体」を使って来ました。

例えば、http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-23.html では、『今日の日記のタイトル(バハイ教は日本の国教になる?)は、またおかしなタイトルである。』という「である体」を使っています。

しかし、昨日の日記では助動詞に「です体」を使ってみました。

すると、何か自分の存在のあり方がこれまでとは違うように感じました。

何というか、「だ体」「である体」を使うと自我が強化され、「です体」を使うと自我が弱まるように感じました。

また、ブログを書く時、一人称代名詞に「私」を使うか、「僕」を使うか、「俺」を使うかでも自我の存在のあり方が異なってくると思います。一番自我が強化されるのは「俺は」か「私、都雄次は」ではないでしょうか。あと「吾輩は」も自我が強化される一人称代名詞ですが、これは既に使われなくなってしまいました(なぜでしょうか)。

このように、一人称代名詞や助動詞の使い方で自我のあり方をコントロール出来る日本語という言語は、世界でみても希少性のある言語だと思います。

なぜ、日本語がこのように自我のあり方をコントロール出来る言語に進化したかはまだ謎だと思います。朝鮮語も一人称代名詞が複数あるらしいですが、日本語のように沢山はありません(日本語の場合、マンガなどでは随分変わった一人称代名詞が使われることもあります)。

では、自我のあり方としては、どういうあり方が一番望ましいのでしょうか。また、そのために使う一人称代名詞と助動詞には何を使えば良いのでしょうか。

これについては、エックハルト・トール著「ニュー・アース」のp.37~にある「幻の自己」という節の内容が手掛かりになると思います。

(以下、引用「ニューアース」p.37~)

「私(I)」という言葉は、使い方しだいで最も大きな誤りを引き起こすことも最も深い真実を表すこともある。

(中略)

日常的な使い方の「私(I)」には根源的な誤りがあり、あなたが何者であるかを誤解させ、ありもしないアイデンティティを意識させる。

(中略)

自分が何者でないかを見きわめるなかから、自ずと自分は何者かという現実が立ち現れる。

(中略)

あなたがふつうに「私(I)」というときに想定しているのは、ほんとうのあなたではない。とんでもない単純化によって、無限の深さをもったあなたが「私(I)」という音声や頭のなかの「私(I)」という概念及びその中身と混同されるからだ。

(中略)

両親が話す言葉を通じて幼児が自分の名前を覚えると、その名前(言葉)は幼児の頭のなかで一つの思考になり、それが自分と同一視される。この段階では、子ともはよく「ジョニーはおなかがすいた」というように自分を三人称で表現する。まもなく「私、僕(I)」という魔法の言葉を覚え、すでに自分自身と同一視している名前と同じように使いだす。次に、他の思考がこの「私、僕(I)」という思考と混ざり合う。この段階では「私、僕(I)」の一部とみなされるモノを指す「私の、僕の(my)」「私のもの、僕のもの(mine)」という思考がそれだ。このモノと自分の同一化、つまりモノに(つきつめればモノが表している思考だが)自己意識をかぶせることによって、モノから自分のアイデンティティを引き出す。

(中略)

子供が育つにつれ、「私、僕(I)」という思考は性別、持ち物、知覚される身体、国籍、人種、宗教、職業など、他の思考を引き寄せる。他に「私、僕(I)」が同一視するのは―母親、父親、妻などの―役割、積み重ねられた知識や好悪などの意見、それに過去に「私に(me)」起こった出来事である。これらは人がアイデンティティを引き出すものごとのほんの一部にすぎない。そしてどれも、自己意識という衣を着せるという事実によって危なっかしくまとめあげられた思考以上のものではない。ふつう「私、僕(I)」という場合に指しているのは、この精神的な構築物なのだ。もっとはっきり言えば、あなたが「私、僕(I)」という場合と言ったり考えたりするとき、だいたいはその主体はあなたではなく、この精神的な構築物すなわちエゴイスティックな自己のいずれかの側面である。
(後略)

(引用終わり)

欧米言語の場合、一人称単数形はひとつしか選択肢がありませんが、日本語ではある意味では無限の選択肢があります。また、一人称単数形を用いずに話したり書いたりすることも出来ます。

日本語は、使い方によっては、「精神的な構築物すなわちエゴイスティックな自己のいずれかの側面」ではない自分を認識出来るかも知れない、という考え方も出来るのではないか?という問いを立てることも可能だと思います。

既に、日本語を用いてそうした自己認識をした人が居るのではないか?と考えて見ると、ひとつ上がるのが鈴木大拙著「日本的霊性」あたりになるでしょうか?この本は一人称単数の使い方については取り上げていない模様ですが、「私、僕(I)」が一体何者であるかについては、かなり掘り下げた議論をしているのではないか、と感じます。エックハルト・トールによる「私、僕(I)」の認識と比較すると、何か重要な発見があるかも知れません。

ということで、とりあえず人称代名詞は出来るだけ使わずにブログを書き、使わざるを得ない場合は「僕」とする、そして助動詞には「です体」を使うという路線でブログを書いて行こうと思います。

追記
本日のブログは、問いの視点は良かったのですが、結論が出ずに終わってしまいました。一日一問一答完結型のブログでは、このあたりが限界になりそうです。

2017年4月23日 追記
助動詞に「です体」を使う路線でブログを書いて行こう、という点ですが、他の人が書いたブログを色々見ていると、「だ体」「です体」を混ぜて淀みのない上手な文章を書いている人もいる事に気づきました。これを考えると、「だ体」「です体」のどちらを使うべきか、という問題はまだ答えが出せない問題だと思います。したがって、この件については、これからも試行錯誤を続けて行くしかないと思います。

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