とあるバハイ教徒の日記:第二支部

神の存在証明と地球温暖化防止

「我思う」と思考する主体と、それに気づく主体は別である:その2

昨日の日記 http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-20.html では、『「我思う」と思考する主体と、それに気づく主体は別である』というテーマについて考察を試みた。

その結果、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という命題を徹底的に考えることは、それ自体がスピリチュアリズムで言う「大いなる存在」を考えることに繋がってくる、という結論にたどり着いた。

では、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という推論はスピリチュアリズムの観点から見ると、どのような欠陥があるのだろうか?これは、結論自体は単純であるが、理解しやすいように説明するのは相当に難しい。本日はこれについて、エックハルト・トール「ニュー・アース」p.63~p.64の議論を分かりやすく説明することを試みる。

まず、昨日の日記 http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-20.html にある、「あなたのなかに思考しかなければ、思考しているなんてことはわからないだろう。自分が夢を見ているのに気付かない夢中歩行者のようなものだ。」というエックハルト・トールの議論から出発する。

我々は思考している時に、「自分は思考している」と気づくことが出来る。この「気づく」主体は、「思考している」主体とは基本的に別の主体であると考えて良い(これは理屈としては理解出来ても、感覚として理解するのは難しいが)。この「気付く」主体の正体を昨日の日記では「大いなる存在(Being)」であると書いたが、ニュー・アースを良く読むと、この「気付く」主体の正体は「別の次元の意識」とまでは書かれているが、「大いなる存在(Being)」であるとは明記されていない(したがって、僕のミスリーディングかも知れない)。

いずれにせよ、「別の次元の意識」があるから「自分は思考している」と気づく事が出来る。しかし、ふだん我々は、夢を見ている人が夢の中のすべてのイメージに自分を同一化するように、全ての思考に自分を同一化している。

ここで問題になるのが、「夢の中のすべてのイメージ」に対応する、現実世界における存在物である。ニュー・アースにおいては、それは「自分の身体、肩書、所有物、所持金額、他人からの評判などの、 色々な”形”」であると言う(あくまで、現時点における僕の理解であるが)。

このように自分を”形”と同一化し、何らかの”形”に自分自身を求め、それゆえに自分自身を失わしてしまうものの正体をニュー・アースでは「エゴ」と呼ぶ。

我々の頭の中には普段、絶え間ない衝動的な思考の流れがある。そしてその考えに関心をすべて吸い取られ、頭のなかの声やそれに付随する感情に自分を同一化してしまって、その思考や感情の中で自分自身を失ってしまう。この状態をニュー・アースでは「エゴの手中に落ちた」状態であると捉えている。

そして、本来我々が感じるべき「大いなる存在(Being)」と上記の”形”がごっちゃになったときに「エゴ」が生じる、とエックハルト・トールは主張するのである。

そして「我思う、ゆえに我あり」とは、エゴの根源を発見したに過ぎない、とニュー・アースではデカルトのコギト命題を論破しているのである。

正直なところ、「大いなる存在」「形」「エゴ」の相互関係について、僕はまだ理解したとは感じない。しかし、デカルトが「我思う」と感じる感情の中に「形」が入り込んでいることは確実である。なお、「大いなる存在」も「我思う」と感じる感情の中にあるか、と言えば、「大いなる存在」の存在証明がまだなされていない以上、客観的には「分からない」と言わざるを得ない。

なお、バハイ教においては「科学と宗教との調和」を教義として挙げており、科学的真理に反する宗教的信条はあってはならないとされている。このため、神の概念についても、それが科学的真理に反すれば考え直すべきということになる(幸い、僕は主観的ではあるが神の存在を確認した)。

本日の日記では、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」をスピリチュアリズムから捉えることを試みたが、それがかなり難解なものであることが分かった。もう少し、分かりやすくこの議論をまとめられないものだろうか?

「我思う、ゆえに我あり」をスピリチュアリズム的に分かりやすく説明することについては、時間を掛けて考えて見たい。

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