とあるバハイ教徒の日記:第二支部

神の存在証明と地球温暖化防止

デカルト「我思う、ゆえに我あり」とはどういう意味か?

過去の日記において、僕は「論理的推論には演繹・帰納・アブダクションの3種類がある」と書いて来た。

そして、神の存在証明の方法論として最も有力と僕が思っていた「アブダクション」が、実は神の存在証明としては不完全だとわかってしまったことを書いた。

そこで、完全な証明を引き出せる「演繹」を用いた神の存在証明を試みた例としてデカルトについて書くことをお約束した。

このため、デカルトによる神の存在証明を解説したウェブサイトを色々渡り歩いて見たのだが、感想としては「難しい」の一言に尽きる。

さすが「近代哲学の祖」と言われるデカルトだけあって、とても僕の頭ではそのシャープな論理展開に付いて行けない。

このような理由で、デカルトによる演繹を用いた神の存在証明については、少しずつ考察を進めることにする。こうなると、このブログの目的が一体何なのか、分からなくなって来るのだが、考え続けることで何か有用な結論が得られることを期待するしかない。

今回は、まず皆さんが一度は聞いたことのある「我思う、ゆえに我あり」について考えて見る。ちなみにデカルトは「我思う、ゆえに我あり」が命題として「真」とみなし、それを足掛かりに演繹を行って「神は存在する」という命題を真なる命題と証明したとされる(その証明に欠陥があるかどうかは、まずは深入りしない)。

この有名な「我思う、ゆえに我あり」の解説ついてwikipediaから引用する。

(以下、引用 https://ja.wikipedia.org/wiki/我思う、ゆえに我あり

(前略)
一切を疑うべし(De omnibus dubitandum)という方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識しているところの我だけはその存在を疑い得ない。

「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である(我思う、故に我在り)、とする命題である。

コギト命題といわれることもある。

哲学史を教える場合の一般的な説明によれば、デカルトはこれを哲学の第一原理に据え、方法的懐疑に付していた諸々の事柄を解消していった、とされる。
(後略)

(引用終わり)

このコギト命題に対しては、僕のような無知な人間でもケチを付けることは出来る。

例えば、「疑っている」我は、存在しないのではないか?また、「疑っている」のは我ではない別の存在ということもあり得るのではないか?東洋の哲学なら、コギト命題に対してこのような疑問を投げかけるのではないだろうか。

ただ、哲学がデカルト以降も、現代に至るまでこのコギト命題の影響を色濃く残している、と上記のwikipedia記事の続きには書かれており、同時にコギト命題に対する批判も生まれていると書かれている。

(以下、引用 https://ja.wikipedia.org/wiki/我思う、ゆえに我あり

(前略)
一般に大陸合理論の立場からいえば、デカルトの命題は自我の存在を証明する推論ではない。

哲学者ガッサンディはデカルトの命題を、「(1)全て考えるものは存在する、(2)私は今考えている、(3)ゆえに私は存在する」という三段論法と異ならないと指摘する。そして、デカルトのコギト命題はこの三段論法の形式に則っておらず、雑であると難ずるのである。

しかし、デカルトにとって、「(1)全て考えるものは存在する」は、未だ疑わしい。

意識作用の直接性から「直観として」導かれたものが、コギト命題である。

故に、これを単なる論理の推論と考えるのには慎重を要する。

これはむしろ「いかなる推理(syllogism)からも帰結(concluditur)されない或る根本的な観念(prima quaedam notio) - (デカルト)」であり、デカルト自身も、「ゆえに」という接続を相応しいとは思っていなかったようである。
(後略)

(引用終わり)

上記の引用文から考える限り、デカルトがコギト命題を導き出す過程では、相当に複雑な思考をしている事が分かる。「我思う、ゆえに我あり」は、例えその推論が正しくなかったとしても、そう単純な思考ではなかったことが分かる。

それでは現在において、我々が神の存在証明を行う際に、何かコギト命題のような立場にある命題はあるのだろうか?あるいはないのだろうか?それとも、そのような命題は必要ないのだろうか?

エベン・アレグザンダーの神体験や、僕の神体験、あるいは他の宗教者の神体験において、何かコギト命題のような命題はあるのだろうか?

僕の神体験の場合は、精神病における脳の特殊な状態下で、思考が神の領域に入ってしまい(注:この記述は正確とは言えないかも知れない)、「神は存在する」と確信したのだが、この「神は存在する」という確信はどのような思考経路により得られたのだろうか?

以上のような事をつらつらと考えつつ、書いてみたが、僕は意味のないことをしているのだろうか?それさえ分からなくなってきた。

ただ、ひとつ言えることは、「我思う、ゆえに我あり」が近代哲学の幕開けとなった非常に重要な命題で、僕の思考力はこの命題を生み出したデカルトには遥かに及ばないということだ。

次回以降は、デカルトがコギト命題をもとに、どのように「神は存在する」という命題を導いたかについて考えてみたい。

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