とあるバハイ教徒の日記:第二支部

神の存在証明と地球温暖化防止

引き寄せの法則の科学

引き寄せの法則は、それを実践して成功した人には、経験則として信じるに足るものだろう。

一方、引き寄せの法則を信じない人々、あるいはそれを知らない人々にとってはインチキ理論としか感じられないと思う。

ここで問題となるのは、引き寄せの法則を客観的に証明することである。

僕は、この問題(引き寄せの法則の客観的な証明)について調べてみたのだが、証明とまでは行かないまでも、それが科学と矛盾しないことについては、ある程度わかったので本日の日記に書かせて頂く。

電子や光子などの極めて小さい素粒子は、その振る舞いが量子力学で記述される。量子力学によれば、これらの素粒子は、普段は確率として、ぼんやりとした霧の塊ように存在しており、観測を行なうまではその厳密な位置や速度などの状態を確定できない。つまり、見ていない素粒子は、見るまでは存在していないということになる。

この「見るまでは存在しない」という現象は、素粒子のようなミクロの視点では実験によって実証されている。一方、マクロな視点でも「見るまでは存在しない」と言えるかどうかは、最近まで未解決だった。

しかし、マクロな視点でも「見るまでは存在しない」ことが実験で明らかになった。それはNTTとイリノイ大学の共同研究「超伝導磁束量子ビットを用いた巨視的実在性問題の実験的検証」というもので、英国科学誌「ネイチャー・コミュニケーションズ(Nature Communications)」で公開されている。内容については、このブログでは書ききれないないので、興味のある方はNTTのウェブサイト http://www.ntt.co.jp/news2016/1611/161104a.html を見て頂きたい。

もっとも、上記の実験で明らかになったのはマクロといっても顕微鏡レベルの話であり(素粒子レベルから見れば十分にマクロなのだが)、もっと大きな現象にまで適用可能かどうかはまだ分からない。しかし、それでもマクロな現象にも「見るまでは存在しない」と言えることが分かったという点は大きい。

つまり、我々の見る世界は見るまでは「存在する状態」と「存在しない状態」が重ね合わさった状態に置かれており「見えるまでは存在しない」、と解釈することが可能なのである。これの示唆するところは「パラレルワールド」の存在可能性である。

引き寄せの法則で成功した人が何をしたかと言うと、パラレルワールドにおいて自分にとって望ましい方の世界を選択したのではないか?と推測することが出来る。

そこで問題になるのが、どうすれば自分にとって望ましい方の世界を選択出来るか、ということである。これは難問であり、常に成功する方法論があれば、誰もが自分にとって望ましい引き寄せが出来ることになるのだが、まだそういう方法論を見つけた人は居ないようだ。

ただひとつ言えることは、引き寄せの法則で成功した人が実際に居るということである。我々の出来ることは、成功者から可能な限りを学ぶしかないだろう。ただ、将来的に引き寄せの法則が科学的に明らかになれば、皆が望ましい世界を引き寄せることが出来るようになる世界が訪れるかも知れない、ということである。それまでは引き寄せの法則は成功者の間での経験則に過ぎないだろう。

追記
本日記を書くにあたっては多くのウェブサイトを参考にさせて頂いた。特に http://vacuumfella.blog62.fc2.com/ が参考になったのでお礼を述べさせて頂きたい。

追記2
なお、ここで記した「引き寄せの法則で成功した人はパラレルワールドにおいて自分にとって望ましい方の世界を選択した」というのはあくまでも仮説であることを念を押して置く。この仮設については、今後、科学的に否定される可能性があるからである。

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古川和男著「原発」革命について―安全で核拡散のない原発は実現するか?―

地球温暖化を防ぐためには、二酸化炭素の排出を抑えねばならない。

二酸化炭素の排出抑制にあたっては、色々な研究者が色々な事を言っているが、一番肝心なことは、二酸化炭素を発生しないエネルギー源を見つけなけばならない、ということである。

二酸化炭素を発生しないエネルギー源は、究極的には自然エネルギーと核融合だろうが、現時点では自然エネルギーだけでは世界のエネルギー需要をまかなうことは出来ないし、核融合については将来的にも実現可能かどうかさえ分からない。

そこで多くの研究者が言うことは、「当面は原子力に頼る」という事である。福島第一原発事故の後でさえ、彼らの多くは意見を変えていない。それほど、エネルギー問題と地球温暖化問題は矛盾しているのである。

僕のブログでは「エネルギー消費を1/10に減らす技術」 http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-11.html 「加速器駆動未臨界炉」 http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-22.html をエネルギー問題と地球温暖化問題の解決の解決に使うべし、と主張しているのだが、もうひとつのアイディアを取り上げた人がいるので、本日の日記はそれについて書くことにする。

それは、故・古川和男氏が提唱した「溶融塩原子炉」というものである。これはトリウムを核燃料に用いた液体核燃料サイクルで、溶融塩を一次冷却材として使用する原子炉である。実は、この技術を用いた原子炉はアメリカで1960年に実際に稼働しており、現在でもインド・中国で計画が進められている。つまり溶融塩原子炉はそれほど新しい技術ではないのである。

では、なぜトリウム溶融塩原子炉がこれまで日の目を見なかったのか?http://wired.jp/2012/05/03/thorium/ によれば、「それが核兵器に使えないからですよ(笑)」という事である。具体的に言うと、核兵器に使うプルトニウムの生産にはトリウム溶融塩原子炉は向いていないのである。

このトリウム溶融塩原子炉は古川和男氏によれば、安全であり、低コストであり、核拡散防止に貢献し、しかもこれまでに原発で生産された使用済み核燃料処理の問題解決に用いることが出来るそうである。

安全性については、燃料が液体であり、すでに溶けているからメルトダウン問題は起こらず、沸点も1500度という高温でかつ化学的に空気と反応することもない、とのことである。したがって、水蒸気や水素がたまって爆発するようなことはない。

コストについては、目標3円/kwhという事で現在の原発が10円/kwhであるのに比べると格段に安くなっている。

核拡散防止については、プルトニウムの生産に向かない事から、それが逆にこの技術の進展を妨げてきたという皮肉な歴史がある。神の最高の被造物であるはずの人類が、兵器技術の発展ばかりに熱を上げて来たとは一体どういうことだろうか?

このトリウム溶融塩原子炉は、トリウムを燃料として用い核燃料サイクルを行う点で「加速器駆動未臨界炉」と少し似ている。大きな違いは、トリウム溶融塩原子炉が臨界状態で運転するのに対し、加速器駆動未臨界炉は未臨界状態で運転する点にある。また、トリウム溶融塩原子炉はすでにアメリカで運転されていた点も異なる。では、なぜアメリカはこの技術を放置してしまったのか?恐らく、それは軍事転用に向かないので予算が付きにくい点が原因であると想像出来る。

いずれにせよ、古川和男氏はトリウム溶融塩原子炉による、核の平和利用とプルトニウムの根絶を訴え続けてきたので、日本の学会では完全に干されたまま人生を終えられてしまった。彼の考えは『「原発」革命』という本 https://www.amazon.co.jp/「原発」革命 にまとめられている。

なお、古川和男氏が提唱した技術は(株)トリウムテックソリューション http://www.ttsinc.jp/ という会社で技術開発が進められており、2030年までには技術を完成させることを目標としている。本来ならば、高速増殖炉によるプルトニウム核燃料サイクルに充てられた研究費用をトリウム核燃料サイクルの研究費用に当てればもっと早く技術が完成しそうに思うのだが、現実はそう甘く無いようで、(株)トリウムテックソリューションは完全に民間費用だけで開発しなければならないようだ。

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エックハルト・トールの言う「エゴ」とは何か

昨日(2017年4月26日)の日記 http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-28.html において、僕は「エゴ」という概念がスピリチュアリズム(特にエックハルト・トールの思想)を理解する上で重要であると書いた。

このエゴについては、2017年4月18日の日記 http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-21.html でも言及しているのだが、この説明は分かるような分からないようなものである。

一般にエゴと言うと (1) 自我、自尊心 (2) 利己主義な考え (3) 利己主義な人 を指すが、エックハルト・トールの言うエゴは一般に言うエゴの定義とは多少異なる。

ニュー・アースp.63にはエゴが次のように定義されている。

(以下、引用 ニュー・アースp.63)

エゴとは「自己」という意識、エゴという意識をまとって繰り返し生起する思考の形と条件づけられた精神・感情のパターンの塊なのだ。

(引用終わり)

しかし、これだけを読んでエゴが何であるか分かる人は恐らくいないと思う。

そこで、色々なサイトを検索したところ、一番簡単に理解出来るのは、「勉強すれば人生変わる」 http://www.6rou.net/ というサイトだった。

(以下、引用 http://www.6rou.net/envi_syumi189.html

なので私は本書を読む際、以下のように頭の中で変換しておりました。

エゴ(の構造)→インチキ

文字通り、インチキの私やインチキの世界を作り上げるインチキなシロモノだから。 「エゴ」よりも親しみやすく?、「これはインチキだ!」と気付きやすい名称だと思う。

(引用終わり)

確かに、ニュー・アースを読む際に「エゴ」を「インチキ」に変換して読むと、遥かに分かりやすくなる。

ニュー・アースによれば、エゴが生まれる最も基本的な精神構造の一つがアイデンティティである、とのことである。何かにアイデンティティを求める、同一化するというのは、「それを同じだとする」という意味なのだそうだ。

我々は、自分の身体、肩書、所有物、所持金額、他人からの評判などに自分自身を求め、それゆえに自分自身を失ってしまう。しかし、良く良く考えてみると、自分が何かにアイデンティティを求めるという行為は、結局「インチキに嵌った」に過ぎないのではないだろうか?

ニュー・アースによれば、何かにアイデンティティを求めたいという無意識な衝動は、エゴの構造と関係している。何を自分と同一化させるかは、人によって、年齢や性別や所得、社会階層、流行、文化によって大きく異なるが、自分と何か外部のものを同一化させると「私の~」「もっと欲しい」「まだ足りない」となる。これはモノでもモノ以外(例えば肩書)でも同じである。

このエゴの構造をモノに限定して考えると、人がモノに自分自身を見出そうとする努力はどうしてもうまくいかない結果となる。何かを手に入れれたとしても、エゴの満足は長続きしないから、さらに多くを求めて消費し続けることになる。これが消費社会の成り立つ原因である。現在の先進国の社会は、生物学的生存の必要性からは遥かに超えた消費をしているが、消費をし続けなければ社会が成立しないような社会構造となっている。

結局、このエゴの構造が極まって地球環境を破壊し、下手をすると人類が滅亡しかねない事態となっているのだが、スピリチュアリズムはこれを傍観して「我々は不死であるから、いくら地球を破壊しても大丈夫」と言えるのだろうか?

僕は、やはり人類はエゴの構造から抜け出さねばならない、と考えているのだが、どうだろうか?悟り系、引き寄せ系を問わず、スピリチュアリズムはエゴの問題と対峙すべきではないだろうか?

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引き寄せの法則と地球温暖化

現代スピリチュアリズムは大まかに分けると2つの潮流がある。

ひとつは「悟り系」もうひとつは「引き寄せ系」である。

僕が座右の書にしているエックハルト・トール著「ニュー・アース」は典型的な「悟り系」スピリチュアリズムと言える。

ニュー・アースの結論は、大まかに言うと「人類はいま、進化するか死滅するかという重大な選択を迫られている。しかし、古いエゴの思考パターンの崩壊と新たな次元の意識の芽生えを体験している人々が増加しつつあり、それらの人々が地球を救う」という結論である。

この「古いエゴの思考パターンの崩壊と新たな次元の意識の芽生え」が悟りの状態であり、これは本来は人間の意識の自然な状態だったそうである。なお、どこでどう間違って人間がエゴの思考パターンに陥ってしまったかは、ニュー・アースには書かれていない模様である。

悟り系のスピリチュアリズムが全てエックハルト・トールと同じ結論を出しているか、というと、それは論者によってかなり異なる。

ここで名を上げて批判することは、バハイ教徒の「人の陰口を言わない」という教義に反するので、それは止めて置くが、例えば「我々の究極の存在は絶対的な安全の中にあるのだから、地球温暖化が起きても何が起きても大丈夫」という旨の主張をする人々もいる。

エックハルト・トールが主張するように、人類の意識レベルが上がって地球温暖化が回避されるか、それとも地球温暖化が起きても我々の究極の存在は絶対に安全だから、地球温暖化が起こって人類が滅亡しても大丈夫なのか、どちらが本当なのだろうか?

科学的な視点から考えると、どちらもおかしな事を言っていると考えられ、だから代替エネルギー技術・省エネルギー技術と経済政策を総動員して温暖化を防がなくてはならないと結論されるだろう。

さて、ここで「悟り系」とは対をなす「引き寄せ系」のスピリチュアリズムと地球温暖化の関係について考えて見る。

引き寄せ系のスピリチュアリズムにおいては、思考は現実化するという。ただ、どんな思考も現実化するのではなく、それにはいくつかの重要なポイントがあるらしい。

例えば、人生攻略法 http://gorich.jp/ というブログを運営している方の考えでは、以下のような事が重要であると言う。

(以下、引用 http://gorich.jp/blog-entry-540.html

・一番大事な願望、絶対に実現したい願望のみに意識を集中する。寝ても覚めてもその事ばかり考えているようにする。他の事は一切考えない。

・意識状態(感じ方、考え方)を、願望実現後のものに変えていく。なりたい状態の振りをして、なりたい状態になりきる。なりたい状態だけに意識を向けて、現状の不満な面には意識を向けない。

・嫌な人間や嫌な気持ちになる事は、全く存在しないかのように完全無視して、いい気分になる事だけに意識を向ける。

(引用終わり)

引き寄せに成功した人のサイトを色々と見ていると、必ずしも上記3点のみがポイントであるとは言えないが、この日記ではとりあえずその点には深入りはしない。

問題は、引き寄せの法則が地球温暖化とどう関係していか、という点である。

もし、人類全員が引き寄せにより豊かな生活を送るようになったとしたら(本来はそうあるべきなのだが)、二酸化炭素がどんどん排出されて地球環境が壊滅的なダメージを受けてしまうのではないだろうか?

この点が「悟り系」と「引き寄せ系」を分かつ点になる。

悟り系の代表とも言えるエックハルト・トールが人間はエゴを克服すべしと説くのに対し、引き寄せ系ではエゴの問題には言及しないのである。

あるいは、究極的には引き寄せ系もエゴの問題は克服せねばならないと考えているのかも知れないが、この点は僕は現時点では分からない。

いずれにせよ、「エゴ」がスピリチュアリズムと地球温暖化を考察する上で重要なものであることが分かった。

それでは「エゴ」とは具体的にどういうものなのであろうか?このエゴについては、過去にも書いて来たのであるが、僕自身いまいち理解していない。したがって、今後はエゴについて出来るだけ分かりやすい説明をしていくことにしたい。

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原子力ルネサンスは幻だったのか?

日本ではあまり耳慣れない言葉であるが「原子力ルネサンス」という言葉がある。

例えば、アメリカを例に取ると、1979年にスリーマイル島の事故で原子力発電への風当たりが強くなってしまい、1993年のコマンチェ・ピーク原発の運転開始を最後に、新規の原発建設がストップしてしまっていた。

しかし、1973に建設をスタートしたが、1983年に80%完了した段階で建設ストップになっていたワッツバー2号機(テネシー州)が2016年10月になり運転開始されたのである。さらに、ジョージア州で2基、サウスカロライナ州で2基の原発が新規に建設中である。

これは、オバマ政権のエネルギー政策である (1) エネルギーの多様化促進 (2) 地球温暖化対策のための排出ガス低減 (3) エネルギー産業の競争力拡大 という3つの特色に基づいている。

問題は、現在建設中の4基の原子炉が、僕が http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-14.html でとり上げた、AP1000という新型炉であり、建設しているウェスチングハウス社(東芝の子会社だった)が経営破綻してしまったことだ。にも関わらず、アメリカ政府はAP1000の建設を後押ししているらしい。

地球温暖化を巡ってエネルギー源をどう確保するかについては、研究者の間で意見が割れている。自然エネルギーで全てをまかない、経済規模の縮小もやむを得ないと考える人もいれば、他方では革新的なエネルギーの開発で経済成長と地球温暖化を両立させると考える人もいる。

民主党・鳩山政権下での地球温暖化政策は野心的なもので、2020までに1990年比で25%も二酸化炭素を削減するという内容だった。しかし、この政策は2011年の東日本大震災による原発ストップで消えてしまった。このように、現時点では、原子力というものが地球温暖化対策において重要な位置にあることは、多くの研究者の間での共通認識となっている(将来的に原発を無くすことを主張する人でも、現時点では原発は必要悪であると考える人は多い)。

ここで問題になるのが、仏アレバ社のEPRと米ウェスチングハウス社のAP1000がちゃんと稼働するか、という点である。これら2つの原子炉は欧米では建設が遅れに遅れて費用負担を生み出している。他方で、中国ではEPRもAP1000も強引に建設・稼働に持ち込む模様である。

このように、原子力ルネッサンスは幻だったとも、現実だったともどちらとも捉えることが出来る(もちろん、EPRとAP1000の稼働にかかっているが)。

僕個人としては、EPRやAP1000はもうスルーしてしまい、http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-22.html に書いた加速器駆動未臨界炉、自然エネルギー、http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-11.html に書いたエネルギー消費を1/10に削減する技術にフォーカスした方が良いのでは、と思っている。

日本は地震の多発地域なので、従来型の原子炉に頼るのは無理がある(地域住民の賛成を得るのは難しいと思う)。加速器駆動未臨界炉はベルギーでは2025年に稼働開始らしいから、あと10年あればこの新技術は何とか手に入るかも知れない。また、エネルギー消費を1/10に削減する技術も、あと10年でかなり進展するだろう。後は、世界の人々が炭素税や二酸化炭素排出規制を受け付けるかどうか、にかかっている(これだけは人間の意識の問題なので、技術では解決できない)。

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スピリチュアリズムから見た地球温暖化問題

スピリチュアリズムをテーマにするメジャーなブログを読む限り、地球温暖化をとりあげたブログ記事は少ない。

もちろん、「地球温暖化」「スピリチュアリズム」で検索すると地球温暖化を憂慮するブログが引っかかってくるのだが、それらはブログランキングで上位に来るブログではない。

これはどういう理由によるものだろうか?エックハルト・トール著「ニュー・アース」が、「人類はいま、進化するか死滅するかという重大な選択を迫られている」と主張するにも限らず、日本のスピリチュアル界はあまり、環境問題を重大な問題と認識していないのである。

ひとつ考えられる原因は、「魂は不死であるから、地球温暖化により人類が滅びても魂は生き残るので大丈夫」という意見である。これはそれなりに納得のいく意見なのであるが、何か違和感を感じる。アメリカのキリスト教原理主義者が地球温暖化を重視しないのと似た精神構造を感じるのである。

もうひとつ考えらえる原因は、人類の英知が地球温暖化を防止するに違いない、という楽観論である。これもそれなりに納得する意見なのであるが、かつて地球温暖化を研究していた僕の目で見る限り、とても楽観論に立てないのである。

スピリチュアリズムには「アセンション説」というものがあり、それによると、2012年冬至から人類は高次元の精神世界へ上昇して行くそうである。僕自身の場合、ある意味においては神を体験した事で精神世界に目覚めたと言えなくもないのだが、それで日常行動が変わったとは言い難い。

食事の量が減ったとは言えないし、夜に早く寝るようになったとも言えない。まだ先進国特有の「大量生産・大量消費」の流れに乗っかった生活をしている。本当なら、僕一人で生きているなら、ミニマムライフを実践したいところではあるのだが、家族がいるので彼らにミニマムライフを押し付けることは出来ない。

エックハルト・トールが言うには、「新たな次元の意識の芽生えを体験している人々」の数が急激に増加しつつある、とのことである。しかし、現実社会を見る限りは、世界はテロや戦争で混沌とし、地球温暖化もどんどん進行しており、新たな次元の意識の芽生えを体験している人々の影響力はゼロに近いのではないかと思ってしまう。

地球温暖化防止について、我々は他力本願の態度は取れない、と僕は思っている。例えば、いま環境省は「炭素税」の導入を真剣に考えているが、他方でこの炭素税のアイディアに対しては経済界が大反対をしている。いま我々一人一人が炭素税に賛成するか否かが現在突き付けられている。経済成長が止まって家計の苦しい日本において、炭素税を払って家計の負担を増やすことを受け入れられるのか?これは他人事ではない。

こういった事を考えると、スピリチュアリズムはどうも、地球温暖化問題から逃げているように思える。本当は逃げられない問題なのに。

僕の考えでは、スピリチュアリズム・新宗教・伝統宗教が力を合わせて地球温暖化防止に対する意志を確立させ、それに日本のエネルギー技術を加えることによって人類の危機を救っていくべきではないかと考えている。インターネットによりそういった意志を持つ個人同士が繋がることが出来る時代になった事は大きな助け舟と言える。

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日本語は一人称代名詞と助動詞の使い方で自我のあり方が違ってくる

このブログではこれまで、一人称代名詞には「僕」、助動詞には「だ体」「である体」を使って来ました。

例えば、http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-23.html では、『今日の日記のタイトル(バハイ教は日本の国教になる?)は、またおかしなタイトルである。』という「である体」を使っています。

しかし、昨日の日記では助動詞に「です体」を使ってみました。

すると、何か自分の存在のあり方がこれまでとは違うように感じました。

何というか、「だ体」「である体」を使うと自我が強化され、「です体」を使うと自我が弱まるように感じました。

また、ブログを書く時、一人称代名詞に「私」を使うか、「僕」を使うか、「俺」を使うかでも自我の存在のあり方が異なってくると思います。一番自我が強化されるのは「俺は」か「私、都雄次は」ではないでしょうか。あと「吾輩は」も自我が強化される一人称代名詞ですが、これは既に使われなくなってしまいました(なぜでしょうか)。

このように、一人称代名詞や助動詞の使い方で自我のあり方をコントロール出来る日本語という言語は、世界でみても希少性のある言語だと思います。

なぜ、日本語がこのように自我のあり方をコントロール出来る言語に進化したかはまだ謎だと思います。朝鮮語も一人称代名詞が複数あるらしいですが、日本語のように沢山はありません(日本語の場合、マンガなどでは随分変わった一人称代名詞が使われることもあります)。

では、自我のあり方としては、どういうあり方が一番望ましいのでしょうか。また、そのために使う一人称代名詞と助動詞には何を使えば良いのでしょうか。

これについては、エックハルト・トール著「ニュー・アース」のp.37~にある「幻の自己」という節の内容が手掛かりになると思います。

(以下、引用「ニューアース」p.37~)

「私(I)」という言葉は、使い方しだいで最も大きな誤りを引き起こすことも最も深い真実を表すこともある。

(中略)

日常的な使い方の「私(I)」には根源的な誤りがあり、あなたが何者であるかを誤解させ、ありもしないアイデンティティを意識させる。

(中略)

自分が何者でないかを見きわめるなかから、自ずと自分は何者かという現実が立ち現れる。

(中略)

あなたがふつうに「私(I)」というときに想定しているのは、ほんとうのあなたではない。とんでもない単純化によって、無限の深さをもったあなたが「私(I)」という音声や頭のなかの「私(I)」という概念及びその中身と混同されるからだ。

(中略)

両親が話す言葉を通じて幼児が自分の名前を覚えると、その名前(言葉)は幼児の頭のなかで一つの思考になり、それが自分と同一視される。この段階では、子ともはよく「ジョニーはおなかがすいた」というように自分を三人称で表現する。まもなく「私、僕(I)」という魔法の言葉を覚え、すでに自分自身と同一視している名前と同じように使いだす。次に、他の思考がこの「私、僕(I)」という思考と混ざり合う。この段階では「私、僕(I)」の一部とみなされるモノを指す「私の、僕の(my)」「私のもの、僕のもの(mine)」という思考がそれだ。このモノと自分の同一化、つまりモノに(つきつめればモノが表している思考だが)自己意識をかぶせることによって、モノから自分のアイデンティティを引き出す。

(中略)

子供が育つにつれ、「私、僕(I)」という思考は性別、持ち物、知覚される身体、国籍、人種、宗教、職業など、他の思考を引き寄せる。他に「私、僕(I)」が同一視するのは―母親、父親、妻などの―役割、積み重ねられた知識や好悪などの意見、それに過去に「私に(me)」起こった出来事である。これらは人がアイデンティティを引き出すものごとのほんの一部にすぎない。そしてどれも、自己意識という衣を着せるという事実によって危なっかしくまとめあげられた思考以上のものではない。ふつう「私、僕(I)」という場合に指しているのは、この精神的な構築物なのだ。もっとはっきり言えば、あなたが「私、僕(I)」という場合と言ったり考えたりするとき、だいたいはその主体はあなたではなく、この精神的な構築物すなわちエゴイスティックな自己のいずれかの側面である。
(後略)

(引用終わり)

欧米言語の場合、一人称単数形はひとつしか選択肢がありませんが、日本語ではある意味では無限の選択肢があります。また、一人称単数形を用いずに話したり書いたりすることも出来ます。

日本語は、使い方によっては、「精神的な構築物すなわちエゴイスティックな自己のいずれかの側面」ではない自分を認識出来るかも知れない、という考え方も出来るのではないか?という問いを立てることも可能だと思います。

既に、日本語を用いてそうした自己認識をした人が居るのではないか?と考えて見ると、ひとつ上がるのが鈴木大拙著「日本的霊性」あたりになるでしょうか?この本は一人称単数の使い方については取り上げていない模様ですが、「私、僕(I)」が一体何者であるかについては、かなり掘り下げた議論をしているのではないか、と感じます。エックハルト・トールによる「私、僕(I)」の認識と比較すると、何か重要な発見があるかも知れません。

ということで、とりあえず人称代名詞は出来るだけ使わずにブログを書き、使わざるを得ない場合は「僕」とする、そして助動詞には「です体」を使うという路線でブログを書いて行こうと思います。

追記
本日のブログは、問いの視点は良かったのですが、結論が出ずに終わってしまいました。一日一問一答完結型のブログでは、このあたりが限界になりそうです。

2017年4月23日 追記
助動詞に「です体」を使う路線でブログを書いて行こう、という点ですが、他の人が書いたブログを色々見ていると、「だ体」「です体」を混ぜて淀みのない上手な文章を書いている人もいる事に気づきました。これを考えると、「だ体」「です体」のどちらを使うべきか、という問題はまだ答えが出せない問題だと思います。したがって、この件については、これからも試行錯誤を続けて行くしかないと思います。

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僕が見た神の姿

2017年4月11日の日記 http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-15.html の中で、僕は以下のような事を書きました。

(以下、引用)

そして、その軽躁状態のある夜、色々な事を考えていると、突如、思考が高速回転を始め、その回転速度がどんどん速くなってついには思考が「神の領域」と言えるレベルに達してしまったのだ。

(引用終わり)

今日は、それをもう少し具体的に記述します。

僕の体験はブログ http://fuurann1104.blog.fc2.com/ を運営されている風蘭さんのものと似たところがあります。

風蘭さんも双極性障害において「神の領域」に触れてしまったと書かれています。具体的には、以下のような体験をされています。

(以下、引用 http://fuurann1104.seesaa.net/article/446601819.html

この体験は正に神の領域である。
雨も上がり新緑は見事に太陽光を受けて光合成の呼吸を繰り返し、
雨は清水となり川から海へと光輝きながら流れる。
大地はゆっくりと自転し、空は益々大気と太陽光との乱反射で青く染まる。
そして遥か宇宙ではこの星も太陽の周りを公転し、また太陽も銀河系を周り、
そしてその銀河もまた宇宙の螺旋の中で動き続けるのを感じる。
宇宙の構成物質は何億年をかけて生命を生み出し、その遺伝子は進化を繰り返す。
恋人達は肌と粘膜をどうしようもなく擦り合わせたくて仕方がなく、
子供達は皆歓喜の笑顔を見せつける。
何という多幸感なんだろう。
神の視点で全てが現実に体験できるのだ。

(引用終わり)

これを読んだだけでは「神の視点」とはその程度のものか、と感じる方が多いと思いますが、上記の引用文の全文が一瞬(0.5秒以下)で頭に浮かんだら、どうでしょうか?普通に考えると、「そんな事はありえない」と思うでしょう。しかし、そのような事が現実にありえるのです。

僕が神を感じた時がそうでした。

僕の場合、最初はゆっくりと思考していました。するとある瞬間から思考の速度が上がり始め、どんどん思考の速度が速くなっていって、ついには神の領域と言えるスピードまで思考の速度が速くなってしまったのです。

僕が、神を感じた時、最初は言葉を使って考えていました。しかし、思考の速度がある程度早くなった時には思考は言葉ではなく、イメージに変化しました。そのイメージを以下の図に示します。
神の姿
僕はこういうイメージを頭の中で見ました。図の中に→がありますが、これは思考の回転する向きです。なぜか、思考が一つではなく、2つの流れになって高速回転しました。

あの時、どういう内容の思考をしていたかは、僕は正確には覚えていません(日記に思考の内容を記録しなかったので、何を考えていたか正確には分かりません)。

したがって、これは憶測になるのですが、どうも僕は因果関係について考えていたのかも知れない、と感じています。ある原因があって、それがある結果を引き起こす、そしてその結果が原因となって、さらに別の結果を引き起こす、という因果の連鎖関係です。そのような思考が上の図の2つの輪の中にビジョンとして見えました。

そして、その因果(?)の中心に僕自身が位置しているように思えたのです。

その時、僕は傲慢にも、「自分が神になってしまった」と思ってしまいました。この「自分が神になってしまった」という感覚は何日か続きましたが、徐々に正気を取り戻し、自分は特にとりえのない普通の人間だと感じるようになりました。

僕のこの体験はチャネリングとかそういった種類のものではなく、単に、「普通の人間の脳では考えられない、神レベルの思考をした」というだけです。なぜ、この思考が神と結びつくのか?という点も僕には上手く説明出来ません。ただ、この思考をした時に「神は存在する」と主観的に確信しただけです。また、特に神からのメッセージも受け取っていません。

いずれにせよ、僕は自分なりの簡単な哲学を、この体験を起点に開始してみようと思っています。

恐らく、それは西田幾多郎の「善の研究」と似たものになるのではないか、と想像します。ただ、西田哲学が前提とする『統一的或者(実在、神)』を、神を信じない人にも分かるように述べられないか、という点が課題ですね。中学生レベルの国語力と認識力でも分かる哲学というものが出来ないものかと考えています。

話は変わりますが、僕のような体験をすると、自我が肥大して行く危険性があります。また、誇大妄想に陥る危険性もあります。新宗教の創始者には、そうした自我の肥大と誇大妄想に陥った人が多いと思います(そうでもなければ、新たな宗教など始めることは出来ない、という仕方のない面もありますが)。

極端な話、全ての宗教の開祖は、ある面では自我の肥大と誇大妄想に陥っていたと考えることも可能ではないでしょうか?しかし、それがなければ宗教は発生しなかったという逆説もあります(素朴なアニミズム等を除いて)。そして、特定の宗教を信じる人の持つ妄想が宗教間対立や宗教戦争をもたらすと考える事が出来ます。

それならいっそ、宗教など世の中に無い方が良いのではないか?とも考えられるのですが、話はそう簡単ではありません。僕の主観では、どうやら神というものが存在するらしいからです。この話は続けるときりがなくなってくるので、また日を改めて考えることにします。

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バハイ教は日本の国教になる?

今日の日記のタイトル(バハイ教は日本の国教になる?)は、またおかしなタイトルである。

普通に考えると、「そんな事、ありえね~」と感じてしまう。

しかし、バハイ教徒の中には、そのような事を信じている人達が結構いるのである。

では、なぜ「バハイ教は日本の国教になる」と信じる人がいるのか?

それは、アブドル・バハーという人が『日本は僚原の火のように燃えたつであろう。』と言った(書いた?)からである。

アブドル・バハーは分かりやすく言うと2代目教主(正式に言うと「聖約の中心」)にあたる人で、どうやら「完全人格者」だったようだ。

この「僚原の火:日本」については http://www.geocities.jp/oneworld_international/library/comp/jwta1_j.htm で序言が読める。

この「僚原の火:日本」の序言には、「もし神の意に添えば汝は日本に神の王国の基礎を築くであろう」とか、「日本人を非常に重要視せよ」とか、「わが望みは汝が日本で神の教えの輝きの源となり、死人に生命を与えることである。日本の人々は聡明であるが覚醒させてくれる指導者を必要としている。」とか書かれている。

日本のバハイ教徒は在日外国人が多いのだが、主にそれらの人達がこの「バハイ教は日本の国教になる」と考えているようだ。

僕が直接聞いたところでは、「日本はこの先、道徳的に退廃しきって行き、退廃しきった時に『バハイ教を国教とする』というアイディアを政治家が取り入れ始める」という話があった(複数人からこのような話を聞かされた)。

しかし、ある面においては、日本にはバハイ教の考えは既に浸透している言える。

それは大本教(正式には「大本」)と、それから派生した新宗教、あるいは大本の教義を一部取り入れた既存宗教の広がりである。

大本の教義の重要な部分に「万教同根」という考えがある。これがバハイ教の教義と一致しているわけである。

バハイ教は基本的にはユダヤ教、キリスト教、イスラム教等の流れを組む、いわゆる「アブラハムの宗教」であるが、バハイ教の場合はゾロアスター教、ヒンズー教、仏教等の創始者も神の啓示者であると考えている。

この「万教同根」を採用する宗教の信徒の人数を足し合わせると、それの日本人全体に対する割合は、世界の他の国々よりもずっと高いのではないだろうか?

このあたりが、僕が「ある面においては、日本にはバハイ教の考えは既に浸透している」と書いた根拠である。

一方、バハイの教義の他の部分、例えば「他人の陰口を言ってはならない」は日本ではあまり浸透していないと言える。日本人は基本的に陰口を言うのが好きな国民性を持っている。

ただ、宗教間対話などは日本の宗教の方がバハイ教より進んでいると言える。例えば大本は宗教間対話を積極的に進めているし、「比叡山宗教サミット」なども他国では見られないものである。

僕は「バハイ教の信者が増える」ことよりも、「バハイ教の教義を実践する人が増える」という事が重要である、と考えている。特に宗教を持っていない人でも、バハイ教の教義を実践してくれればそれで良いと考えるわけである。そういう人が日本で一般化したなら、それは「バハイ教が日本の国教になる」と同じである、と僕は考えている。

では、バハイ教の教義とは何であるのか?それについては、僕はまだ理解し切っていない。実を言うと、僕はバハイ教よりも生長の家の教義の方をより理解している(この点、僕はおかしなバハイ教徒である)。

ただ、ひとつ分かっているバハイ教の教義は、「地球は一つの国であり、人類はその市民である」というものである。

現在、国際的には北朝鮮の問題やイスラム国(IS)といった問題、国内的には嫌中国・嫌韓国といった問題が顕在化しているが、それらは克服し、無くしていかねばならない、というのがバハイ教徒に課された課題なのである。

僕は単純な理想主義者ではない。リアリズムに立った上で一歩一歩理想に向かって歩まねばならないと考えている。このブログは主に神の存在の問題と地球温暖化の問題にフォーカスしているが、国際関係の問題もバハイ教徒の視点に基づいて考えて行こうと思っている。

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地球温暖化防止は日本の技術力にかかっている:その2

2017年4月10日の日記 http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-14.html において、AP1000という新型の原子炉が建設中であると書いた。

このAP1000の特徴は、原子力事故において致命的な「メルトダウン」という状態を防ぐ工夫がなされている。AP1000は米ウェスチングハウス社の設計による原子炉であるが、メルトダウン対策に基づいた設計をしている原子炉には、もう一つ仏アレバ社による「EPR」という原子炉がある。

このEPRについてもAP1000と同様に中国で建設中である。但し、建設に乗り出した後に色々と問題が発生して苦慮している模様である。これについては、http://www.snsi.jp/bbs/page/11/page:1 の記事No [34]に相田英男という人が興味深い記事を書かれているので、参考にして頂ければと思う。

現在の原子力発電が危険であるそもそもの原因は、原子炉が「臨界状態」でなければ発電が出来ない点にある。原子力発電の運転は、臨界を少しだけ超えるか超えないかの状態、すなわち臨界の安定状態を維持する必要があるのだ。この臨界の制御に失敗すれば原子炉暴走事故になってしまう。

そこで考え出されたアイディアが未臨界の状態で発電を行う原子炉である。専門家以外はあまり耳にしない言葉であるが、これは「加速器駆動未臨界炉」と呼ばれている。加速器によって加速された陽子線を照射して核破砕反応を起こし、それによって生成された中性子を未臨界の核燃料を装荷した原子炉に照射することでエネルギーを発生させる、というアイディアである。詳細を知りたい方は wikipedia記事https://ja.wikipedia.org/wiki/加速器駆動未臨界炉 を参照して頂きたい。

この加速器駆動未臨界炉は、そもそも未臨界の状態で運転をするため、異常時には核分裂の連鎖反応が止まっていく。そのため、原子炉暴走事故は原理的に起こらない。ただ、上記wikipedia記事には、日本で開発が進められている鉛ビスマスを水で冷やす設計の場合、水素爆発の危険がゼロではないと書かれている。

この加速器駆動未臨界炉の利点は、まずトリウムという資源量の多い元素を用いられること、さらにトリウム燃料サイクルが確立されればエネルギーの資源量の問題が当面は解決されること、技術の軍事転用がほぼ考えられないこと、と色々ある。

ただ、いわゆる「核のゴミ」の問題については、この技術で完全解決されるとは言えない。従来の原子力発電と異なり、核のゴミを地中に埋める期間は数100年に短縮されるが、それでも核のゴミを受け入れる自治体は増えないだろう。

また、この技術はまだ基礎研究段階にある。wikipedia記事ではベルギーが2023年に運転開始の予定であるとされているが(ベルギーの当該サイトを確認したところでは2025年頃)、京都大学の当該サイト http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/KART/ads/ads_world.html では、ベルギーの計画は示されておらず、代わりに Carlo Rubbia氏を中心とするTRADE計画というものが京都大学の加速器駆動システムの対抗馬として上げられている。

本来、エネルギー問題の最終解決手段は「核融合」と考えられているが、核融合が本当に実現するかはまだ分からない。そのため、より実用化の可能性が高い加速器駆動未臨界炉が自然エネルギーと並んでエネルギー問題・地球温暖化問題の当面の解決手段である、と考えられている(Carlo Rubbia氏は現在の原発がエネルギー問題の解決になるとは考えていない)。

なお、引き寄せの法則によると「反○○」と言うと余計にその○○が出現するそうである(科学的にそれが本当かどうかは証明されていないが)。したがって、僕も「反原発」と言うのは止めた方が原発が減るのではないか、と考え始めている。

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