とあるバハイ教徒の日記:第二支部

神の存在証明と地球温暖化防止

「我思う」と思考する主体と、それに気づく主体は別である:その2

昨日の日記 http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-20.html では、『「我思う」と思考する主体と、それに気づく主体は別である』というテーマについて考察を試みた。

その結果、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という命題を徹底的に考えることは、それ自体がスピリチュアリズムで言う「大いなる存在」を考えることに繋がってくる、という結論にたどり着いた。

では、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という推論はスピリチュアリズムの観点から見ると、どのような欠陥があるのだろうか?これは、結論自体は単純であるが、理解しやすいように説明するのは相当に難しい。本日はこれについて、エックハルト・トール「ニュー・アース」p.63~p.64の議論を分かりやすく説明することを試みる。

まず、昨日の日記 http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-20.html にある、「あなたのなかに思考しかなければ、思考しているなんてことはわからないだろう。自分が夢を見ているのに気付かない夢中歩行者のようなものだ。」というエックハルト・トールの議論から出発する。

我々は思考している時に、「自分は思考している」と気づくことが出来る。この「気づく」主体は、「思考している」主体とは基本的に別の主体であると考えて良い(これは理屈としては理解出来ても、感覚として理解するのは難しいが)。この「気付く」主体の正体を昨日の日記では「大いなる存在(Being)」であると書いたが、ニュー・アースを良く読むと、この「気付く」主体の正体は「別の次元の意識」とまでは書かれているが、「大いなる存在(Being)」であるとは明記されていない(したがって、僕のミスリーディングかも知れない)。

いずれにせよ、「別の次元の意識」があるから「自分は思考している」と気づく事が出来る。しかし、ふだん我々は、夢を見ている人が夢の中のすべてのイメージに自分を同一化するように、全ての思考に自分を同一化している。

ここで問題になるのが、「夢の中のすべてのイメージ」に対応する、現実世界における存在物である。ニュー・アースにおいては、それは「自分の身体、肩書、所有物、所持金額、他人からの評判などの、 色々な”形”」であると言う(あくまで、現時点における僕の理解であるが)。

このように自分を”形”と同一化し、何らかの”形”に自分自身を求め、それゆえに自分自身を失わしてしまうものの正体をニュー・アースでは「エゴ」と呼ぶ。

我々の頭の中には普段、絶え間ない衝動的な思考の流れがある。そしてその考えに関心をすべて吸い取られ、頭のなかの声やそれに付随する感情に自分を同一化してしまって、その思考や感情の中で自分自身を失ってしまう。この状態をニュー・アースでは「エゴの手中に落ちた」状態であると捉えている。

そして、本来我々が感じるべき「大いなる存在(Being)」と上記の”形”がごっちゃになったときに「エゴ」が生じる、とエックハルト・トールは主張するのである。

そして「我思う、ゆえに我あり」とは、エゴの根源を発見したに過ぎない、とニュー・アースではデカルトのコギト命題を論破しているのである。

正直なところ、「大いなる存在」「形」「エゴ」の相互関係について、僕はまだ理解したとは感じない。しかし、デカルトが「我思う」と感じる感情の中に「形」が入り込んでいることは確実である。なお、「大いなる存在」も「我思う」と感じる感情の中にあるか、と言えば、「大いなる存在」の存在証明がまだなされていない以上、客観的には「分からない」と言わざるを得ない。

なお、バハイ教においては「科学と宗教との調和」を教義として挙げており、科学的真理に反する宗教的信条はあってはならないとされている。このため、神の概念についても、それが科学的真理に反すれば考え直すべきということになる(幸い、僕は主観的ではあるが神の存在を確認した)。

本日の日記では、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」をスピリチュアリズムから捉えることを試みたが、それがかなり難解なものであることが分かった。もう少し、分かりやすくこの議論をまとめられないものだろうか?

「我思う、ゆえに我あり」をスピリチュアリズム的に分かりやすく説明することについては、時間を掛けて考えて見たい。

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「我思う」と思考する主体と、それに気づく主体は別である:その1

本日の日記のタイトルは、妙なタイトルである。

しかし、スピリチュアリズムを理論化する際、これは避けられない問題である。

このため、何回かに分けてこの『「我思う」と思考する主体と、それに気づく主体は別である』というテーマについて書くことにする。

まずは、2017年4月15日の日記 http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-19.html のおさらいから始める。

演繹法は完全な証明を引き出せる論理的推論である。

NAVERまとめにある演繹法の説明 https://matome.naver.jp/odai/2139625697364840601 には、以下のような例が示されている。

「人間はみな死ぬ」(大前提) → 「徳川家康は人間である」(小前提) → 「徳川家康は必ず死ぬ」(仮説。この仮説は正しい)

論理学では、この推論を「混合仮言三段論法の肯定式」と呼ぶ。

これをデカルトのコギト命題に当てはめると、「我思う、ゆえに我あり」という論理的推論は、本来は、

「全て考えるものは存在する」(大前提) → 「私は考えている」(小前提) → 「ゆえに私は存在する」

でなければならない、と哲学者ガッサンディは指摘した。

しかし、デカルトはガッサンディより高度な事を考えていた。それは、「全て考えるものは存在する」という大前提は疑わねばならない(自明とは言えない)という事である。

自分自身が考えていることは自明であっても、「自分以外の人間が考えている」ことは自分には分からないからである。例えば、このブログを書いている都雄次という筆名の人間は「考えているのだろうか?」と疑うことが可能なのである。このように、大前提が疑わしければ、「私は存在する」まで疑わしくなってしまう。

したがって、デカルトは考えに考え抜いた上で、「我思う、ゆえに我あり」という、論理的推論としては不完全な命題を彼の哲学の出発点とせざるを得なかった、と考えることが出来るのである。

ここで、僕の座右の書であるエックハルト・トール著「ニュー・アース」の出番になる。「ニュー・アース」p.64には概ね以下ような事が書いてある。

デカルトより三百余年後になって、哲学者ジャン・ポール・サルトルが次のような事に気づいた。『「我あり」と言っている意識は、考えている意識とは別だ』ということ、そして、それが意味するところは、「自分が考えていることに気づいたとき、気づいている意識はその思考の一部ではなく、別の次元の意識だ」ということである。

「ニュー・アース」では続いて次のような事が書いてある。「あなたのなかに思考しかなければ、思考しているなんてことはわからないだろう。自分が夢を見ているのに気付かない夢中歩行者のようなものだ。」

では、その「気付いている意識」(思考の一部ではない、別の次元の意識)とは一体、何者なのか?

エックハルト・トールは、その「気付いている意識」を「大いなる存在(Being)」と呼んでいる。普通、英語で単語が大文字で始まる単語は「神」に関わる概念であることから、その「気付いている意識」は、何か神と関わりのある意識であると考えられる。

したがって、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という命題を徹底的に考えることは、それ自体がスピリチュアリズムで言う「大いなる存在」を考えることに繋がってくるのである。

しかし、残念ながら、僕自身は『「我思う」を気付いている、大いなる意識』を考えることだけでは、リアリティを持って神と関わりのある意識であると捉えることは出来ない。

結局、「大いなる意識」を捉えるには瞑想状態など、脳が特殊な状態になることでしか捉えることが出来ないのだろうか?そうなると、「客観的な神の存在証明」など出来ない、ということになりはしないか?

本当は、本日の日記では、コギト命題を元にして神の存在証明に至ったデカルトの思考過程を解説する予定だったのだが、どうもコギト命題そのものが神と関わっている事が分かってしまった。

という事で、明日以降の日記に何を書けば良いのか、迷いが生じてしまっているのだが、とにかく、「我思う、ゆえに我あり」についてもう少し掘り下げて行くことにしたい。

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デカルト「我思う、ゆえに我あり」とはどういう意味か?

過去の日記において、僕は「論理的推論には演繹・帰納・アブダクションの3種類がある」と書いて来た。

そして、神の存在証明の方法論として最も有力と僕が思っていた「アブダクション」が、実は神の存在証明としては不完全だとわかってしまったことを書いた。

そこで、完全な証明を引き出せる「演繹」を用いた神の存在証明を試みた例としてデカルトについて書くことをお約束した。

このため、デカルトによる神の存在証明を解説したウェブサイトを色々渡り歩いて見たのだが、感想としては「難しい」の一言に尽きる。

さすが「近代哲学の祖」と言われるデカルトだけあって、とても僕の頭ではそのシャープな論理展開に付いて行けない。

このような理由で、デカルトによる演繹を用いた神の存在証明については、少しずつ考察を進めることにする。こうなると、このブログの目的が一体何なのか、分からなくなって来るのだが、考え続けることで何か有用な結論が得られることを期待するしかない。

今回は、まず皆さんが一度は聞いたことのある「我思う、ゆえに我あり」について考えて見る。ちなみにデカルトは「我思う、ゆえに我あり」が命題として「真」とみなし、それを足掛かりに演繹を行って「神は存在する」という命題を真なる命題と証明したとされる(その証明に欠陥があるかどうかは、まずは深入りしない)。

この有名な「我思う、ゆえに我あり」の解説ついてwikipediaから引用する。

(以下、引用 https://ja.wikipedia.org/wiki/我思う、ゆえに我あり

(前略)
一切を疑うべし(De omnibus dubitandum)という方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識しているところの我だけはその存在を疑い得ない。

「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である(我思う、故に我在り)、とする命題である。

コギト命題といわれることもある。

哲学史を教える場合の一般的な説明によれば、デカルトはこれを哲学の第一原理に据え、方法的懐疑に付していた諸々の事柄を解消していった、とされる。
(後略)

(引用終わり)

このコギト命題に対しては、僕のような無知な人間でもケチを付けることは出来る。

例えば、「疑っている」我は、存在しないのではないか?また、「疑っている」のは我ではない別の存在ということもあり得るのではないか?東洋の哲学なら、コギト命題に対してこのような疑問を投げかけるのではないだろうか。

ただ、哲学がデカルト以降も、現代に至るまでこのコギト命題の影響を色濃く残している、と上記のwikipedia記事の続きには書かれており、同時にコギト命題に対する批判も生まれていると書かれている。

(以下、引用 https://ja.wikipedia.org/wiki/我思う、ゆえに我あり

(前略)
一般に大陸合理論の立場からいえば、デカルトの命題は自我の存在を証明する推論ではない。

哲学者ガッサンディはデカルトの命題を、「(1)全て考えるものは存在する、(2)私は今考えている、(3)ゆえに私は存在する」という三段論法と異ならないと指摘する。そして、デカルトのコギト命題はこの三段論法の形式に則っておらず、雑であると難ずるのである。

しかし、デカルトにとって、「(1)全て考えるものは存在する」は、未だ疑わしい。

意識作用の直接性から「直観として」導かれたものが、コギト命題である。

故に、これを単なる論理の推論と考えるのには慎重を要する。

これはむしろ「いかなる推理(syllogism)からも帰結(concluditur)されない或る根本的な観念(prima quaedam notio) - (デカルト)」であり、デカルト自身も、「ゆえに」という接続を相応しいとは思っていなかったようである。
(後略)

(引用終わり)

上記の引用文から考える限り、デカルトがコギト命題を導き出す過程では、相当に複雑な思考をしている事が分かる。「我思う、ゆえに我あり」は、例えその推論が正しくなかったとしても、そう単純な思考ではなかったことが分かる。

それでは現在において、我々が神の存在証明を行う際に、何かコギト命題のような立場にある命題はあるのだろうか?あるいはないのだろうか?それとも、そのような命題は必要ないのだろうか?

エベン・アレグザンダーの神体験や、僕の神体験、あるいは他の宗教者の神体験において、何かコギト命題のような命題はあるのだろうか?

僕の神体験の場合は、精神病における脳の特殊な状態下で、思考が神の領域に入ってしまい(注:この記述は正確とは言えないかも知れない)、「神は存在する」と確信したのだが、この「神は存在する」という確信はどのような思考経路により得られたのだろうか?

以上のような事をつらつらと考えつつ、書いてみたが、僕は意味のないことをしているのだろうか?それさえ分からなくなってきた。

ただ、ひとつ言えることは、「我思う、ゆえに我あり」が近代哲学の幕開けとなった非常に重要な命題で、僕の思考力はこの命題を生み出したデカルトには遥かに及ばないということだ。

次回以降は、デカルトがコギト命題をもとに、どのように「神は存在する」という命題を導いたかについて考えてみたい。

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演繹法とは何か

http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-17.html の中で僕は『アブダクションを用いた論理的推論は「神の存在証明」としては不完全であるということになる』と結論した。

これまで書いて来たように、論理的推論には演繹・帰納・アブダクションの3種類がある。

僕は、これら3種類の論理的推論において「アブダクション」がもっとも有力な候補であると考えて来た。しかし、そのアブダクションが神の存在証明としては不完全だとわかってしまったのである。

ということは、残りの演繹と帰納を神の存在証明に用いることを検討しなければならなくなって来た。今回はそのうち、演繹について考えて見ることにする。

まずは、演繹を用いた神の存在証明は後日に検討することにして、本日は演繹そのものについて、考えてみたい。

演繹についてはwikipediaでも説明されているのだが、このwikipediaの説明は分かりやすいとは言えない。そこで、より分かりやすいNAVERまとめから該当部分を引用する。

(以下、引用 https://matome.naver.jp/odai/2139625697364840601

(前略)
演繹法は、「××だから、○○である」という論理を数珠つなぎにしていき、結論を引き出す方法です。

演繹法とは、一般論やルールに観察事項を加えて、必然的な結論を導く思考方法のことです。三段論法とも言われます。

「演繹法」は,ルール(大前提)から結論を導き出す思考の経路

演繹法による証明の例:
「人間はみな死ぬ」(大前提) → 「徳川家康は人間である」(小前提) → 「徳川家康は必ず死ぬ」(仮説。この仮説は正しい)

他の例その1:
「日本は高齢化が進んでいる」→「だが高齢者向けの施設は少ない」→「高齢者向けの施設を建設すればお客さんが集まる」

他の例その2:
「野菜は栄養がある」→「にんじんは野菜だ」→「だから、にんじんは栄養がある」
(後略)

(引用終わり)

僕の手元にある、近藤洋逸・好並英司著「論理学入門」には「混合仮言三段論法の肯定式」「混合仮言三段論法の否定式」「純粋仮言三段論法」「選言三段論法」「構成的ディレンマ」「破壊的ディレンマ」「簡約」「連言」「添加」の9種類の演繹を用いた推理が解説されている。

論理学の入門書でも、演繹についてはこれだけ複雑な推理形式が解説されており、それらは基本的には数学的な記述がなされているのだが、この日記ではそれら9種類の演繹を説明している余裕はない(僕の能力的、時間的、スペース的な都合上)。

したがって、上記のNAVERまとめの演繹法による証明の例で問題はないと考えることにする。なお、NAVERまとめの証明の例はどれも「混合仮言三段論法」であり、この論法だけが演繹法による証明ではないという事をお断りしておく。

さて、我々が演繹法を用いて証明したい事は何なのか?

それは「神は存在する」という仮説(演繹法では正しい仮説になる)である。

それでは、どういった大前提・小前提を用いれば「神は存在する」という演繹推理が可能になるのだろうか?

僕の考えでは、デカルトが演繹推理を用いた神の存在証明にトライしており、そこでの大前提は「私は存在する」という命題なのである。確かに、この「私は存在する」という命題は僕にとっても、大方の皆さんにとっても正しい命題のように思える。

今日の日記はここまでの考察とするが、次はまずデカルトによる神の存在証明について検討することにしたい。

P.S.
wikipediaでも他のサイトでも、「神の存在証明」について、論理的推論には演繹・帰納・アブダクションの3種類があるという議論を持ち出した説明がどこにもないのはなぜなのだろうか?まさか、誰もこの点に気づいていないとは思えないのだが・・。

P.S.2
上記のNAVERまとめの例は、演繹推理としては妥当でないかも知れない。例えば、「日本は高齢化が進んでいる」→「だが高齢者向けの施設は少ない」→「高齢者向けの施設を建設すればお客さんが集まる」において、施設を建設してもその入居費が高すぎればお客さんは集まらない。また、この「日本は高齢化が進んでいる」に基づく推論が三段論法であるか、他の論法であるか、僕には分からない。このように、演繹推理を使いこなすのは難しいのである。

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アブダクション(仮説形成)による神の存在証明

4月8日の日記 http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-13.html において、僕はアブダクション(仮説形成)という論理的推論が神の存在証明において重要になるのではないか、と結論した。

そこで、本日はアブダクションと神の存在証明について、考察を進めることにする。まずは、アブダクション(仮説形成)について、wikipediaの記事から引用する。

(以下、引用 https://ja.wikipedia.org/wiki/論理的推論

論理的推論(ろんりてきすいろん、英: logical reasoning)は、論理学において演繹、帰納、アブダクション(仮説形成)の3種類に区別されうる。「前提条件」(precondition)、「結論」(conclusion)、そして「『前提条件』は『結論』を含意する」という「規則」(rule)があるとすると、それら3種の推論は次の仕方で説明されうる。

(中略)

アブダクション(仮説形成)
アブダクション(仮説形成)は「前提条件」を規定することを意味する。この推論は「結論」と「規則」を用いて、「『前提条件』は『結論』を説明することができるだろう」ということを裏づけることである。例えば、「芝生が湿っている。雨がふると芝生が湿る。したがって、雨がふったに違いない。」歴史科学者や診断専門医、探偵は通常、この種の推論にかかわっている。

(引用終わり)

(以下、引用 https://ja.wikipedia.org/wiki/アブダクション

(前略)
アブダクションは、関連する証拠を――真である場合に――最もよく説明する仮説を選択する推論法である。アブダクションは観察された事実の集合から出発し、それらの事実についての最も尤もらしい、ないしは最良の説明へと推論する。

アブダクションという用語はまた、たんに観察結果や結論を説明する仮説が発生することを意味するためにもときおり使われる。だが哲学やコンピュータ研究においては、前者の定義がより一般的である。

(中略)

アブダクションは、結論 b に規則「 a ならば b である」を当てはめて仮定 a を推論する。帰納が仮定と結論から規則を推論するのに対し、アブダクションは結論と規則から仮定を推論する。

アブダクションは、推論した仮定が真であることを保証しない。アブダクションそれ自体としては、形式的には論理学でいう後件肯定に等しい。

このようにアブダクティヴな推論はそこで提起される原因が疑わしいので、「前後即因果の誤謬 (Post hoc ergo propter hoc)」という時間の前後関係を因果関係と混同した虚偽の論法に似ている。

(引用終わり)

これを、エベン・アレグザンダーと僕の「神体験」に当てはめると、次のようになる。

「ある人が神を感じた。神が存在するなら、ある人は神を感じることが出来る。したがって、神は存在するに違いない。」

神を感じた人は歴史の中に沢山いると思う。

有名な例として、ソクラテスの弟子が、アポロンの神託所において、巫女に「ソクラテス以上の賢者はあるか」と尋ねてみたところ、「ソクラテス以上の賢者は一人もない」と答えられた、という記述がプラトンの名著『ソクラテスの弁明』にある。

これらを考えると、アブダクションによって神の存在証明することは有効なように感じられる。

しかし、上のwikipedia記事にある通り、アブダクションによる論理的推論は、推論した仮定が真であることを保証しないのである。つまり、アブダクションは「神の存在証明」としては不完全であるということになる。アブダクションによる「神は存在するに違いない」という結論は「神は存在する」という命題を保証しないのである(「違いない」と言っているだけで本当に神が存在するかどうかは確証されていないのである)。

ということは、神の存在証明には演繹か帰納を用いる方がより妥当なのだろうか?

これについては、また後日考察して行こうと思う。

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地球温暖化防止は技術だけでは無理。人類の意識変容か神の存在証明が必要。

このブログのサブタイトルは「神の存在証明と地球温暖化防止」としている。

この2つの一見、関係がなさそうな単語がどう結びついているかについて説明する。

http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-category-2.html において、僕は東京大学で行われている「エネルギー消費を1/10に削減する技術」が人類の希望である、と書いた。

しかし、単にエネルギー技術を向上させるだけでは、地球温暖化は防止出来ないと僕は考えている。

仮に「エネルギー消費を1/10に削減する技術」が2025年頃に実用化されたとしよう。そこで問題になるのがその新エネルギー技術のコストである。

世界で一番豊富な化石燃料は石炭であり、それを液化出来ればコスト的には「エネルギー消費を1/10に削減する技術」に比べると遥かに安くエネルギーが生産出来ると考えられるからである(そして、石油もまだ枯渇はしていない)。

化石燃料がまだ大量に存在する状態においては、例えば日本だけが「エネルギー消費を1/10に削減する技術」を導入したとすると、日本の製品の国際競争力が落ちてしまうのである。

これを考えると、何か「世界人類がまとまって行動する」きっかけが地球温暖化防止には必要になると言える。

僕の愛読書であるエックハルト・トールの「ニュー・アース」ではそのきっかけが「人々の意識の変容」であると言う。以下に「ニュー・アース」の該当部分を引用する。

(以下、引用 エックハルト・トール「ニュー・アース」)

p.28
生存を脅かす根源的な危機に対処する―これがいま、人類に突き付けられた課題である。

すでに二千五百年以上も前に古代の知恵ある教師たちが見抜いていた、そしていまは科学技術の発達によってますます拡大されつつある、人間のエゴイスティックな思考に固有の機能不全、これが初めて地球上の生命の存続を脅かしている。

ごく最近までは―これも古代の教師たちが指摘していた―人間の意識の変容はただの可能性にすぎず、ばらばらに離れたところで文化的宗教的な背景とは関わりなくごく少数の個人が実現しただけだった、

人類の意識の開花が広がらなかったのは、それほどの緊急性がなかったからだ。

地球上の相当数の人々が(まだ気づいていないとしても)まもなく気づくだろうが、人類はいま、進化するか死滅するかという重大な選択を迫られている

そして古いエゴの思考パターンの崩壊と新たな次元の意識の芽生えを体験している人々はまだ比較的少数であるものの、その数は急激に増加しつつある。

(引用終わり)

しかし、どれだけの人が「意識の変容」を起こし始めているのだろうか?少なくとも、数十パーセントの人々が「悟りの境地」に達さなれば、意識の変容による地球温暖化防止は無理だと僕は考えている。

そして、「悟りの境地」に至るのはとても難しいのだ(僕は、エックハルト・トールの薦める方法で悟りを試みたのだが、全然進歩しなかった)。よほど素質があるか、良い教師に出会うかしない限り、図書だけの知識で悟りの境地に至るのは困難だろう。

そこで、「多くの人々が悟りの境地に至って地球温暖化が防止される」代わりに僕が考え出したのが「客観的な神の存在証明がなされることにより地球温暖化が防止される」ことである。

これ(「客観的な神の存在証明がなされることにより地球温暖化が防止される」)は僕の直観であり、神の存在証明がなされるとどのようにして地球温暖化が防止されるのかは、僕にはまだ分からない。

ただ、客観的な神の存在証明は、誰か一人の人間が成し遂げれば良いことなので、エックハルト・トールの主張する「人々の意識の変容による地球温暖化の防止」よりはハードルが低そうに思える。

なお、主観的な神の存在証明は少なくともエベン・アレグザンダーと僕が成し遂げているので、後はどうすればそれを客観化するかという問題に移るだけなのだ(実は、その「客観化」が難しいのかも知れないが)。

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僕の「神体験」を作り出した精神病「双極性障害」

僕は http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-9.html の中で以下のような事を書いた。

(以下、引用 http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-9.html

僕も精神病で脳が通常とは異なる状態になってしまった中で、「神の存在」を感じ取ってしまった。それは「これ以上の驚きはない」体験だった。まさか、自分が人生の中でこんな体験をするとは、それまで想像もしていなかったのだ(ちなみに、僕は理学部の出身であり、エベン・アレグザンダーと同様、科学的な態度で物事を捉える人間である)。

(引用終わり)

ここで、僕がいったいどんな精神病に罹っているいるか説明したい。

それは「双極性障害(別名:躁うつ病)」である。これはうつ病と少し似ているのだが、うつ状態と躁状態を繰り返す病気である。これを簡単に紹介したウェブ情報を引用する。

(以下、引用 http://www.smilenavigator.jp/soukyoku/about/abc/abc01_01.html

双極性障害は気分が高まったり落ち込んだり、躁状態とうつ状態を繰り返す脳の病気です。激しい躁状態とうつ状態のある双極Ⅰ型と、軽い躁状態(軽躁状態)とうつ状態のある双極Ⅱ型があります。

躁状態では、気分が高ぶって誰かれかまわず話しかけたり、まったく眠らずに動き回ったりと、活動的になります。ギャンブルに全財産をつぎ込んだり、高額のローンを組んで買い物をしたり、上司と大ゲンカして辞表を叩きつけたりするような社会的信用や財産、職を失ったりする激しい状態になることもあります。一方、いつもよりも妙に活動的で周りの人から「何だかあの人らしくない」「元気すぎる」と思われるような軽い状態は、軽躁状態と呼ばれます。

一方、うつ状態では、一日中ゆううつな気分で、眠れなくなったり、または逆に眠りすぎたりします。大好きだった趣味やテレビ番組にも関心がなくなったり、食欲が低下し、おっくうで身体を動かすことができないといった症状もみられます。

(引用終わり)

僕はこれまで躁状態を3回経験した。過去の2回でも躁状態になると神秘体験のようなものをしたのだが、僕は「脳内での錯覚」とほぼ切り捨てていた。しかし、3回目の躁状態において、「これは現実ではあり得ない」と感じるような体験をしたのだ。

双極性障害の患者は、躁状態になるとIQ(思考のレベルと言っても良いかも?)が上がる事がある(もっとも、本人は思考のレベルが上がったと錯覚しているだけで、客観的には思考がおかしくなっているだけの例もある。僕の1回目、2回目の躁状態では客観的には単に頭がおかしくなっただけであった)。

この、躁状態におけるIQ(思考のレベル)の向上は僕だけが体験しているのではなく、他のブログにも同様の報告がある。それをひとつ以下に引用して見よう。

(以下、引用 http://fuurann1104.blog.fc2.com/blog-entry-729.html

(前略)
此の病気の人は 共存の仕方が解れば とても大きな潜在能力が有ります
それさえ会得できれば 不可能な事柄は無くなりますよ

(中略)

この病気をコントロール出来れば 尋常なはない能力を発揮することが出来ます
社会貢献の為 人々の幸せの為に客観的正義が確信できればこの潜在能力は解放しても良いのです

(中略)

躁転して以来。
アイディアだけは永遠に、ある種の映画を見せられているかのごとく、どこまでも溢れてきます。
肝心なのはアイディアの収集が本人の中で、つかないことです。
アイディアの見切りとも言い換えられるかもしれませんが、永遠に終わらないアウトプットをしなければならない感覚があります。
今は大半をノートに書いたりして、文字として形に残しているものの正直、キリがないと感じる次第です。

(中略)

コントロール下に於いては、必要なときだけ開放させます。(IQが極端に上がる)
(後略)

(引用終わり)

上記が全て真実かと言えば、単なる当人の主観で真実と錯覚しているケースもあるかも知れない。僕の1回目、2回目の躁状態の際に色々と日記を書いてみたのだが、自分では書いている際には「素晴らしい事を思いついた」と思っていても、後から見ると単なる病的な文章だった。

しかし、僕の3回目の躁状態では事態がかなり異なった。明らかにIQが極端に上がる体験をしていたのだ。ちなみに、3回目の躁はあまり強い躁ではない軽躁状態で、それが長期間続いている(実は、現在も軽躁状態にある)。

そして、その軽躁状態のある夜、色々な事を考えていると、突如、思考が高速回転を始め、その回転速度がどんどん速くなってついには思考が「神の領域」と言えるレベルに達してしまったのだ。

なお、その際の思考内容を文章に表すのは非常に難しい。また、2つの「思考の輪の連鎖」が互いに90度の角度で交わり合って高速回転を始めたのであるが、それを図示することも容易ではない。しかし、これらについては、稿を改めてトライして見ようと思う。

P.S.
ちなみに双極性障害は自殺率の最も高い精神病であり、うつ病相の際には僕も何度も死にたいと思った。また、基本的にこの病気は一生治らないとされている。これについて、この先僕はどうなるだろうか、という不安はあるものの「神がどうにかして解決してくれる」という安心感も他方ではある。

2017年4月14日追記:
上の文章において『過去の2回でも躁状態になると神秘体験のようなものをしたのだが、僕は「脳内での錯覚」とほぼ切り捨てていた。』とあるが、後から良く考えると、これは半分ウソである。僕は1回目、2回目の神秘体験も「もしかすると本当の神秘体験ではないか?」とも感じている(もっとも、単なる精神異常かも知れないが)。問題は、1回目、2回目の神秘体験があまりにも異常なもので、とても書けないことである。これらの神秘体験を発表出来る日が来るか、僕には分からない。いずれにせよ、「ウソをつかずに本当の事を書く」ことは難しい、と痛感している。

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新型原子炉AP1000について:その1

最初に言っておくが、僕は原発反対派である。

その事を踏まえた上で、目下、日本の原子力業界に緊急事態が生じているので敢えてAP1000という新型原子炉について取り上げさせていただく。

何が緊急事態なのか?簡単に言えば「東芝」という会社が原子力事業を巡って経営危機に陥っているのである。そして、その原因がAP1000という新型原子炉にあるのである。

僕が説明しても信じて貰えないかも知れないので、以下に概要を引用する。

(以下、引用 http://arcanaslayerland.com/2017/02/01/toshiba-2/

東芝が2017年に倒産しそうな会社に入っていると噂されています。

前回記事では、東芝が今年2017年に倒産する可能性の前に、虎の子の半導体事業を切り離すことで最悪のケースは免れることができるとお話しました。

そもそも東芝が倒産の危機に陥っているのは原子力事業での7000億円規模の損失が原因なのですが、なぜそんな事態を招いてしまうことになってしまったのか?

(中略)

まず、2016年12月。

東芝は原子力事業に巨額損失があると発表。

その巨額損失というのは、東芝の子会社ウェスチングハウス(WH社)が『0円』で買収した米原子力サービス会社ストーン&ウェブスター(S&W社)の抱えていた7000億円規模の巨額損失のこと。

要するにババを掴まされたってことです。

このババを売りつけたのが、S&W社の親会社である米大手エンジニアリング会社シカゴ・ブリッジ・アンド・アイアン(CB&I社)なのですが、もともと試算されていたS&H社の資産価値(のれん代)は105億円でした。

しかし現実は105億円ではなくマイナス7000億円という大誤算。

2015年に東芝を危機に陥れた(といっても自業自得ですが)水増し不正会計後の再建計画は、この2016年末の原子力事業での巨額損失発覚により完全に崩壊。
(後略)

(引用終わり)

経営面での詳細をもっと知りたい方は、上記サイトで僕が後略した部分を読んで欲しい。

さて、ではなぜこんな大失敗を出すウェスチングハウス(WH社)を東芝は買収して子会社にしたのか?

この理由がAP1000という新型原子炉にあるのである。

ウェスチングハウスが開発を進めていたAP1000という新型原子炉は「受動的安全系」という考え方を採用している。これについては以下に引用させて頂く。

(以下、引用 http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_No=02-08-03-04

(前略)
安全系は全面的に圧縮ガス、重力、自然循環力による静的(受動的)安全システムを採用しており、大口径破断による一次冷却材喪失事故(LOCA)から運転中の極小リークに至るまで一定期間(3日間)運転員の操作に期待しなくても炉心損傷を防止し、公衆安全が保てるようになっている。また、運転員の誤操作(ヒューマンエラー)による事故の影響を低減することもできるようになっている。

(中略)

LOCA時には2基の炉心補給水タンク(高圧注入系、小容量、重力駆動)、2基の蓄圧タンク(中圧注入系、中容量、圧縮ガス駆動)、格納容器内燃料取替用水タンク(低圧注入系、大容量-約1900m3、重力駆動)から炉心へ冷却水の注入が行われる。蓄圧タンクと格納容器内燃料取替用水タンクは1次冷却系と逆止弁を介して接続されており、系の圧力が下がれば自動的に注水が行われる。各タンクからの注水を確実にするために自動減圧システムが設けられており、最終的には一次冷却系の圧力を0.7kg/cm2程度まで下げる。自動減圧系は、誤作動を避けるために4段階の減圧系を設けている。炉心の長期冷却のために、事故発生後10時間程度で格納容器内燃料取替用水タンクからの炉心注水は終了し、1次系は各ループ上部まで冠水する。
(後略)

(引用終わり)

上記の記事はある程度の専門家に向けて書かれた記事なので、もっと分かりやすく説明した例を引用させて頂く。

(以下、引用 http://www.snsi.jp/tops/kouhou/1957

(前略)
(質問者)そのAP1000とは、どのような装置なんですか。

(相田)AP1000というのは、最新型の第3世代プラス型と呼ばれる原発の一つです。第3世代プラス炉とは、さっきも言いましたが、電源が無くなっても福島第1原発のようなメルトダウンが起きない、受動的安全性(静的安全性ともいう)を持っている原子炉です。スリーマイル島原発事故より前に作られた原発が第2世代型で、80年代以降に開発されて作られたのが第3世代型です。日本のABWR(改良型沸騰水炉)とか、韓国で開発されたSystem80+というPWRが第3世代型ですが、これらは電源が落ちてポンプが止まるとメルトダウンしてしまいます。この性質を能動的安全性(動的安全性)と言います。人間がポンプを動かさないと事故が防げません、という意味ですね。第3世代プラス炉になると、ほっといても何事も無く止まります、という話です。

 どうやって受動的安全性を実現するかですが、色々あるみたいですけど、AP1000では建屋の上部に大量の水を溜めておいて、いざ電源が止まっても、バルブが機械的に開いて冷却水が自動的に下に落ちてくるように工夫してるそうです。冷却は72時間は連続するのでその間に炉心を安全状態まで冷やすことが出来る、と言ってます。コロンブスの玉というか、当たり前そうでも、なるほど、と思いますよね。
(後略)

(引用終わり)

つまり、福島第一原発で起きたような大事故は、理論上はAP1000では起こらないのである。したがって、そのような技術を持っているウェスチングハウスを東芝が買収して子会社化したのは、経営的には目の付け所が良かったと言える。

だが、問題はその後である。ウェスチングハウスがジョージア州ボーグル、サウスカロライナ州VCサマー原発の受注(合計4基)を受けて工事を始めた後に色々と問題が出て工事が遅れ、7000億円の赤字が表面化してしまったのだ。

(なお、このAP1000の問題ついては上記サイト http://www.snsi.jp/tops/kouhou/1957 が非常に面白いので読んで頂きたい)

という事で、アメリカ国内においては新型原子炉AP1000は工事が遅れて経営破たん状態にあるのだが、実はAP1000は中国でも建設中であり、こちらの方は完成間近なのである。

(以下、引用 http://jp.reuters.com/article/china-nuclear-westinghouse-idJPKBN1710EM

WH破産申請、中国の原発計画への影響限定的=国家電力投資集団

[2017年 03月 30日 上海 ロイター]

中国の国家電力投資集団は30日、東芝(6502.T)傘下の米原発子会社ウエスチングハウス(WH)による破産法申請は、同国の原発計画に「大きな影響」を与えないとの見方を明らかにした。

同集団は声明で「双方は中国におけるWHの最新鋭原子炉『AP1000』プロジェクトの重要性を把握しており、共通の優先事項として同プロジェクトを進め、年内の原子炉稼働という目標を確実に達成するために投資を増やしていくことで合意した」と述べた。

WHの原子炉「AP1000」は、中国浙江省三門県に建設中であり、中国国家電力投資集団が計画している4つの原子炉のうちの1つ。

1号機は当初、2014年にも完成の予定だったが、設計上の問題に加えて、2011年の福島原子力発電所の事故を受けて、中国で原子力産業に関する国家的な見直しが行われた影響で、建設は遅れている。

(引用終わり)

以上のような状況なのだが、今後AP1000はどうなって行くのか?また東芝はどうなって行くのか?反原発派の僕にも目の離せない問題である。

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神の存在証明はどのような論理的推論によるべきか?

僕は http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-1.html の中で「神が存在するか、しないないかは客観的に考えると「分からない」のであり、それを「存在しない」とか「存在する」と考える人たちは思考が偏っているのである」と書いた。

しかし、その一方で『エベン・アレグザンダー著『プルーフ・オブ・ヘブン』は神の存在証明でもある』という記事 http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-9.html も書いた。

上記の2つの議論(神の存在は分からない vs 神の存在を証明した人がいる)はどちらが正しいのだろうか?あるいは、どちらも正しいかどちらも間違っているのだろうか?

現時点において、僕の頭は相当に混乱しているのだが、混乱している時は論理学の基礎に戻って考えるのが有効ではないかと僕は考えた。

それでは、論理学の基礎を説明したwikipedia記事を引用して見よう。

(以下、引用 https://ja.wikipedia.org/wiki/論理的推論

論理的推論(ろんりてきすいろん、英: logical reasoning)は、論理学において演繹、帰納、アブダクション(仮説形成)の3種類に区別されうる。「前提条件」(precondition)、「結論」(conclusion)、そして「『前提条件』は『結論』を含意する」という「規則」(rule)があるとすると、それら3種の推論は次の仕方で説明されうる。

演繹
演繹は「結論」を規定することを意味する。この推論は「規則」と「前提条件」を用いて「結論」を導くことである。例えば、「雨がふると芝生は湿る。雨がふっている。したがって、芝生は湿っている。」数学者は通常、この種の推論にかかわっている。

帰納
帰納は「規則」を規定することを意味する。この推論は「前提条件」の次に起こる「結論」の諸事例の一部から「規則」を学ぶことである。例えば、「これまで、雨がふるといつも芝生は湿ってきた。したがって、雨がふると芝生は湿る。」科学者は通常、この種の推論にかかわっている。

アブダクション(仮説形成)
アブダクション(仮説形成)は「前提条件」を規定することを意味する。この推論は「結論」と「規則」を用いて、「『前提条件』は『結論』を説明することができるだろう」ということを裏づけることである。例えば、「芝生が湿っている。雨がふると芝生が湿る。したがって、雨がふったに違いない。」歴史科学者や診断専門医、探偵は通常、この種の推論にかかわっている。

(引用終わり)

上記のwikipedia記事には、3種類の論理的推論が挙げられている。

一つ目は「演繹」である。デカルトはこれを用いて神の存在証明を試みた。しかし、僕は演繹で神の存在証明を行うのは不可能であると考えている。演繹は数学の主要な部分を占めており、論理的推論においては極めて強力なツールであるが、それが「心理的新しさ」を引き出すことは出来ても「論理的な新しさ」を引き出すことは不可能である。

二つ目は帰納である。僕の直観では、カントが演繹と帰納を組み合わせて神の存在証明を試みたのではないかと感じている(但し、wikipediaの「神の存在証明」のページhttps://ja.wikipedia.org/wiki/神の存在証明ではカントは「道徳論的証明」を行ったとされているが)。僕の感覚では、カントによる神の存在証明は非常に良い線を行っていると感じている。しかし、皆さんの大半はカントによる道徳論的な神の存在証明を「訳が分からない」と思われることだろう。そもそも、「道徳的命題」が真であると証明することは出来ないのだ。

という事で、三つ目の「アブダクション」が神の存在証明において重要な位置づけになるのではないか、という事になるのではないだろうか?これが今日の日記の結論である。確かに、「エベン・アレグザンダー著『プルーフ・オブ・ヘブン』は神の存在証明でもある」という僕の記事 http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-9.html は確かにこの「アブダクション」の事例に分類されると考えて良さそうだ。

さて、ここ暫く、ほとんど毎日ブログを更新していて僕は頭の使い過ぎでオーバーヒート状態である。明日は安息日(日曜)なので、ブログ更新は休ませてもらうが、今後は頭がオーバーヒートしない状態でブログを継続する事を考えている。

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善意から出たウソもスピリチュアリズムでは許されないのか?

僕は3月29日の日記『スピリチュアルの分野では「ウソをつかないこと」が重要」』に以下のような事を書いた。

(以下、引用 http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-4.html

スピリチュアルや心霊の事を書いた本やブログ、またその種のものを扱ったテレビ番組は数多くあります。また、霊能者を名乗る人も数多くいます。

ただ、それらを書いたり言ったりしている人にどれだけ本当の事を言っている人がいるのでしょうか?

これは僕の勝手な想像かも知れませんが、恐らくはそれをネタにするとお金になるから、という理由で適当にウソを言っている人が多いのではないでしょうか?

(中略)

でも、スピリチュアルや心霊を語る人がウソを言っていると、本当の事は分からなくなります。

だから、スピリチュアルの世界では、科学の世界と同様に、皆が本当の事を言わなければなりません。それが無い限りスピリチュアルの世界に進歩はありません。いつまでも同じところに留まっているだけになります。
(後略)

(引用終わり)

僕は、上記の記事を書いている時、「これがスピリチュアリズムにおける正しい態度」と確信していた。

しかし、その確信が揺らぎ始めたのだ。

というのは、「善意から出たウソ」もスピリチュアリズムにおいて許されないのか?という問題が起こるからである。

例えば、病気でもう余命いくばくもない人がいるとしよう。そこで、その人に「人間の魂は永遠に生き続けるから、安心して死んでも良いのですよ」とある人が出まかせのウソを言ったとする。これは悪いことなのだろうか?(なお、僕個人は死後の世界があるか、まだ確信が持てていない)

あるいは、昔から信じられてきた「善行を行った人は天国に行き、悪行を行った人は地獄に落ちる」というのは、何の確証も得られていない一種の盲信(ウソと言えないこともない)であるのだが、それは人々が善行を行う方向に社会を導いていたのではないだろうか?そして、科学の発展により、そうした善行を行う信心深い人々が少なくなってしまったという面もあるのだ。

こういう事を考えていると、「スピリチュアリズムにおいては、ウソを言ってはいけない」という僕の確信が揺らぎ始めてくるのである。

そうなると「スピリチュアルや心霊の事を書いた本やブログ、またその種のものを扱ったテレビ番組は数多くあります。また、霊能者を名乗る人も数多くいます。」ということについても、全て悪いとも言えなくなる。

しかし、だからと言って「スピリチュアリズムの世界ではウソを言っても良い」という事にはならないのである。

哲学者カントは「良い動機」にもとづく行為こそが道徳的な行為であると考えた。以下にカントの考えの一部を引用する。

(以下、引用 http://qlomaga.com/ethics/ethics-kant-01/

カントによれば、「善意志」は、”意志することによって善い”つまり”それ自体で善い”ものである。そして「善意志」は、あらゆる手立てを尽くして最善の結果をもたらそうとするが、たとえば当人の能力不足や外的要因にとって思わしくない結果に終わろうとも、「善意志」の良さは決して失わわれることはないという。

(引用終了)

カントの考え方に基づけば、「善意志にもとづいたものであれば、多少怪しげなスピリチュアリズムの解説も許される」ということになるのではないのか?

そうなると、「僕の勝手な想像かも知れませんが、恐らくはそれをネタにするとお金になるから、という理由で適当にウソを言っている人が多いのではないでしょうか?」という3月29日時点における僕の考え方にも間違いがあるかも知れないことになる。

そもそも、他人を批判して良い気分になることはない。他人の言動は、良い部分は評価して、悪い部分はスルーする方が批評する側にとっても批評される側にとっても良いのではないだろうか?また、その方が他人の行動を良い方向に導く効果があると僕は感じ始めた。

なお、僕が信仰しているバハイ教においては、「人の陰口を言ってはいけない」という倫理規範がある。したがって、僕はバハイ教徒として、このブログ上で他人の陰口を言ってはいけないのである(しかし、それは「言うに易し、行うのに難し」である)。

このため、他人を批判する時は陰口ではなく、面と向かって批判する必要があるのである。しかし、面と向かって批判する際にも倫理規範がある。それは以下のようなものである。

(以下、引用 http://www.goodreads.com/quotes/70007-beautify-your-tongues-o-people-with-truthfulness-and-adorn-your

“Beautify your tongues, O people, with truthfulness, and adorn your souls with the ornament of honesty. Beware, O people, that ye deal not treacherously with any one.”

(引用おわり)

上記の英文は難しい表現で、僕には正確に翻訳することは出来ない。ただ一つ言えることは「他人を批判する」際には「美しい言葉で、正直に語ること、そしてそれを通して魂を向上させること」が必要である、ということである。

以上、『スピリチュアルの分野では「ウソをつかないこと」が重要」』について、色々と考察して来たが、一体、結論は何なのだろうか?結局は堂々巡りなのだろうか?

ただ、「僕個人はウソを付かない努力をする」「他人を批判する際は、陰口ではなく、面と向かって美しい言葉で批判すること」という結論は倫理的に見て正しい行動であるように思う(あくまで、僕の主観に過ぎないが)。

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