とあるバハイ教徒の日記:第二支部

神の存在証明と地球温暖化防止

この世が仮想現実であるかも?という個人的体験(1)

僕は2012年4月にストレスから双極性障害(躁うつ病)の躁状態になった。

その時、色々と目の前の世界が歪んだ体験をしたのだが、今日はそのうちの1つを取り上げる。

それは、僕の妻が妙なアクセントの方言で話しはじめた事である。

普段、妻は標準語のアクセントで話しているのだが、僕の躁状態がはげしくなったある日、妻が聞いたこともないアクセントの方言(東北弁に少し似ている)で話し始めた。そして、標準語アクセントに戻ったり、また妙なアクセントになったりしたのである。

この時、妻の世界では普通に標準語アクセントで話し続けていた。しかし、僕の世界ではそれが妙なアクセントに聞こえたのだ。

では、どちらの世界が客観的に見て正しい世界なのだろうか?

恐らく、妻の世界(標準語アクセントで話している世界)が正しい世界で、僕の世界(妻が妙なアクセントで話している世界)はニセの世界であるというのが正しい世界解釈であると考えられるだろう。

この時の僕の脳はひどく狂っており、現実を客観的に捉えることが出来なくなってしまっていたと解釈するわけである。

そうした妄想の中で僕は妻が妙なアクセントで話しているように捉えてしまったのではないか、というのが現時点の科学では正しい認識と考えられるだろう。

しかし、狂った脳が見た僕の世界(妻が妙なアクセントで話している世界)は、存在しない世界なのだろうか?もし、本当に存在しなければ、僕にはどうして妙なアクセントに聞こえてしまったのだろう?

なお、僕はこの躁状態の中で色々な人の会話を聞いたのだが、妙なアクセントの方言で話すのは妻だけで、後の人は普通のアクセントで話していたのである(この中には関西弁で話す関西人も居たのだが)。

ここで新たな発想として、「パラレルワールド」あるいは「仮想現実」を持ち出すことが出来るのである。

この発想で考える場合、妻の世界(標準語アクセントで話している世界)と僕の世界(妻が妙なアクセントで話している世界)は並行して生じており、どちらの世界も存在することになる。

この場合は、僕には妙なアクセントに聞こえてしまったのが「それもひとつの現実だから」という解釈になり、矛盾は生じない。

ただ、このような極端な事態(僕と妻が別の世界を見ている)は滅多に生じることがなく、通常は僕と妻は共通の世界を見ているのだろう。

このように、精神病が作り出す世界はひとつの「仮想現実」あるいは「パラレルワールド」と捉えると、これまで謎だった現象(幻覚、幻聴など)を説明することが可能になる。

もっとも、この「精神病パラレルワールド説」はあくまでも仮説であり、今後、科学が進めば否定されるかも知れないことはお断りしておきたい。

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神を信じる科学者の頭の中はどうなっているのか?

僕は長い間、神を信じていなかった。

それは科学的な世界観を持っていたためである。

僕の場合、たまたま一種の神秘体験をして神の存在を信じるようになったのだが、もしそうした体験がなければ今でも神を信じていなかっただろう。

しかし、そのような僕でも科学的な世界観と神秘体験で得られた世界観が頭の中で衝突しており、その2つの世界観をどう接続するかで今でも苦しんでいる。僕がブログを書く原動力もここにあるのである。

一方、世の中には神を信じる科学者も結構居る。

有名なのはアインシュタインで、彼は「宗教のない科学はかたわ、科学のない宗教は盲目」と例えた。彼は科学、宗教、芸術など様々な活動を動機付けているのは、崇高さの神秘に対する驚きだとしていたのである。

確かに、西ヨーロッパで科学が発達したのは、キリスト教に原因があるとされている。

しかし、科学が進展し、素粒子物理学や分子遺伝学まで辿りついた結果、科学者は次第に神への信仰を放棄し始め、唯物論的世界観が優勢になってしまったのである。

そうした唯物論的世界観を持つ者が多数派にある中で、どうして神を信じる科学者が生き残っているのだろうか?彼らの頭の中では一体どうやって科学と宗教が共存しているのだろうか?

神秘体験をした僕でさえ、科学と宗教が頭の中で衝突しているのに、神秘体験なしに神を信じる科学者は頭がどうかしているのではないかと思わざると得ないのである(一種の精神分裂か、多重人格状態なのか?)。

あるいは、彼らは幼少時より親から信仰を刷り込まれたから神を信じているのではないか、とも考えられる(アメリカ人はこのケースが多いようだ。他方、ヨーロッパ人は無神論者が多いように思われる)。

僕の考えでは、神の存在が最新の科学と矛盾しないことを示すことに、「科学と宗教の調和」の解決策を求めざるを得ないと考えている。

例えば、量子力学の理論がミクロだけではなくマクロなスケールでも成り立つ事が分かれば、現代人の世界観は随分と変わるだろう(もっとも、神と量子力学の関係は現在では不明であるが)。

とにかく、現代は「神の死んだ」世界なのである。それはそれで構わないと思う人もあるかも知れないが、そうした「神の死んだ」世界は不幸な世界なのである。物質的に貧しかった中世に生きていた人々よりも、現代人は不幸であると僕は考えている。

そして、その不幸を作り出してしまったのが科学なのである(その科学の原動力が西欧のキリスト教にあるというのが何とも皮肉であるが)。

科学者はこの問題(自分達の成果が世界を不幸にしてしてしまったこと)をどこかで清算しなければならない、と僕は考えている。アインシュタインが言うように、「宗教のない科学はかたわ」なのである。

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マスメディアはなぜ人が殺し合う番組をつくるのか

刑事ドラマや時代劇において顕著な傾向であるが、なぜか視聴者は人が死んだり、殺し合いをするのを娯楽として楽しんで視る。

普通の感覚では、身近で人が死ねば「不幸」でしかないのだが、なぜかテレビや映画では人が死ぬのを皆、娯楽にしているのである。

NHKのような公共放送でも人が死ぬのを娯楽にしている、というのは客観的に見ると尋常ではない。

なぜ人間は人が死んだり殺し合いをするのを見るのが好きなのだろうか?

エックハルト・トールによれば、人はそういう映画を見て嫌な気分になりたいからだという。人間は嫌な気分になるのが好きで、それが良いと思うのだそうである。エックハルト・トールは、それを「ペインボディ」という概念を用いて説明する。

ペインボディとは、抑圧された古い負の感情の集積で、かつ今も生き生きと息づいている感情のエネルギー場を指す、エックハルト・トールの造語である。

このペインボディは非個人的な性格もあわせて持っており、延々と続く部族間闘争や奴隷制、略奪、強姦、拷問その他の暴力に彩られた人類の歴史を通じて、数えきれない人々が体験してきた痛みもそこには含まれている。

この痛みは今も人類の集団的真理のなかで生きていて、日々積み重ねられているという。

他方、動物行動学や人類学の研究を通して分かってきたことは、動物の同種間の殺害はありふれたものだということだ(かつては、同種間の殺害は人間に特有のものであると考えられていたらしい)。

そして、霊長類の社会性は、この同種間の殺害を避けるために発展して来たという説もある。

いずれにせよ、どうも本能的に人間は他人への殺意を持つことがあり、人間社会にはそれを避けるメカニズムと促進するメカニズムが同居しているようだ。

このあたりに、人が死んだり殺し合ったりすることを娯楽として視聴する原因があるのではないだろうか。

こうした娯楽は遠い将来に人類がもっと発展した社会を持った時にも存在するのだろうか?そろそろ我々は殺し合いを娯楽にすることを止めなければならない、と僕は思うのだが、いかがだろうか。

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宗教と科学は共存しうるか

バハイ教は「科学と宗教の調和」を教義としている。

しかし、科学と宗教(スピリチュアリズムも含む)は果たして矛盾せずに共存出来るのだろうか?

例えば、西洋では古来より「創造説」が真理と考えられて来たが、今では進化論にとって代わられ、宗教が支配する範囲は狭まっている。

今後、科学が更に進歩すると、宗教の支配領域はもっともっと狭まって行き、最終的には科学が全てを説明することになりはしないか?と予想することも可能である。

この問題は、科学哲学からある程度考えることが出来る。

現在、科学哲学(科学の方法論)を巡っては複数の思想が対立しているが、その中で多くに支持されているのがポパーの反証主義である。

ポパーは、「科学理論は実験によって反証出来なければならない」と考えた。ポパーは、人間が観察によって科学理論の正当性を証明することは原理的に不可能であり、観察によってできることは、ある理論を反証することだけである、と主張している。

このポパーの考えを適用すると、「反証可能性を持つ命題」が科学的命題であり、反証可能性を持たない命題は科学では手におえないということになる。そして、一回でも反証されれば、その命題は間違いということになる。

スピリチュアリズムに関する命題で言うと、科学者は長年「死後に意識はない(意識は脳が作り出す)」と考えて来たが、http://yujimiyako.blog.fc2.com/blog-entry-5.html で紹介したパム・レイノルズの臨死体験は、脳波がフラットな状態(脳死状態)において体外に意識があったことから、意識は脳が作り出すとは言えない、という反証がなされた。

したがって、今、我々は「意識は脳が作り出す」に代わる科学理論(反証可能性を持つ理論)を造らねばならない、ということになる。

しかし、生物の持つ意識の問題についての科学の発展は進歩のスピードが遅いようだ。意識の問題の究極的な探究は神の存在問題(意識と神の関係の問題)になると考えられるが、それが科学の対象になる時代は果たして訪れるのだろうか?

あるいは、意識の問題や神の問題は科学の対象にはなり得ないのか?

神の問題が科学の対象にならないとすれば、どこかに宗教と科学を分け隔てる境界が存在するということになるが、その境界はどこになるのだろうか?

この問題については、僕がインターネットで検索した限りでは、まだ未発展の領域のようだ(「心または意識に関する量子力学的アプローチ」 https://ja.wikipedia.org/wiki/量子脳理論 というのがあるにはあるが)。

神の存在を信じる科学者は多いし(アインシュタインなどが有名)、僕個人の経験でもどうやら神は存在するらしいと考えているのだが、それを立証する手段が無いというのは、もどかしいものである。

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悟りの科学

バハイ教に「悟り」という概念はない。

しかし、バハイ教ではヒンズー教や仏教の創始者も神の啓示者と教えられており、瞑想についても推奨されている。

このため、悟りの概念はバハイ教と全く無縁ではないと言える。

悟りというのは、脳がある状態になった時の意識状態を表した概念であると考えられるが、まだ科学的に明らかにはなっていないようだ。

インターネット上の情報を探した限りでは、悟りには概ね2種類の仮説がある。

ひとつは左脳の思考が止まって、右脳だけでものごとを認識している状態を悟りの状態とする考えである。左脳は言語を使って考えるので、言語による思考を止めてしまえば右脳だけが働いた状態になり、悟りの状態が訪れるという理屈である。

エックハルト・トールのいう悟りはこの「言語による思考を止める方法」であり、彼は「思考は観察すれば止まる」という。だから、ただ思考を観察することを続けるだけで悟りの状態が得られるというのである。

しかし、この「思考を止める」のは容易ではない。僕が試した限りでは、1分間は思考を止めることが出来ても、5分、10分になると相当に難しく、ついつい雑念が湧いてしまう。

もし、そんな簡単に悟りを得ることが出来るなら、今でも世界のかなりの人口の人が悟りを得て、地球温暖化も防止出来るのではないだろうか。左脳の思考を完全に止めるのは難しいのである。

もうひとつの悟りの理論(仮説)として、脳波がガンマ波(40ヘルツ)になった状態で悟りが訪れるというものがある。このガンマ波は瞑想中に生じる、非常に鋭敏で悟りに近い状態のときだけに見られる脳波である。ブッダはこのガンマ派が出ている意識状態のことを「サマ・サーディ(真の瞑想)」と呼んでいた、とされる。

脳波をガンマ波(40ヘルツ)にすることは、バイノーラルビート(両耳性うなり)を用いれば実現可能かも知れない。僕は睡眠薬の代わりにバイノーラルビートを用いて寝ており、この技術で脳波をコントロールが可能なことは実証済みである。

なお、僕は今まで、瞑想中は通常アルファ波(8~12ヘルツ)になるので、脳波は周波数が低めの方が悟りを導きやすいと考えていたのだが、これはどうやら逆のようである。周波数は低い方が脳がリラックスして悟りをもたらすと考えていたのだが・・。

上記の2種類の悟りの理論は互いに矛盾しているように思われる。左脳の活動停止と、脳波の周波数が高くなる事は、相反する事象に思えるのである。したがって、どちらかの仮説が間違っていると思われる(あるいは両者を包括する理論が存在するのかも知れないが)。

いずれにせよ、悟りはまだ科学的には解明されていないようだ。今後もし、悟りが科学的に明らかになれば、多くの人が悟りを得られる可能性がある。そうなれば、人類社会は劇的に改善されると思うのだが、どうだろうか?

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